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2006年01月02日

J.S.Bach The Sonata and Partitas---Gidon Kremer

[音楽--music ]

J.S.Bach The Sonata and Partitas for Violin Solo---Gidon Kremer
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目の前にある「音」。
一つ一つの「音」。
それらの「音」は、それぞれがほかのすべての音の響きの中に内包され
そこにある。
「音」と「音」、「余白」・・・・・。その「つながり」、そして「関係」。
構築されたもの。
目の前にある、確かな。「音」の、存在。
「音」と「音」が築く空間。
構築された伽藍のような。

音楽を建築とのアナロジーで語ろうという試みがある。
しかし、
ここで、ぼくらがみせつけられるもの。
それは、「音」と「音」が「幹のない接ぎ木」として、そこにある、ということ。

このような音楽の聴き方。
さて、それはどのような聴き方か。

グールド。
グールドの演奏に最初にふれたときの驚き。
今まで意識していなかった、「音」と「音」のかたちが、そこにあったという驚き。
グールド以降、音楽の聴き方が変わった、というのは少々大げさか。

ケージ。
J.ケージの音楽に最初にふれたときの驚き。
今まで意識していなかった、「音」と「音」の姿が、そこにあったという驚き。
ケージ以降、音楽の聴き方が変わった、というのは少しも大げさではないはずだ。

宮川淳が「アンフォルメル以降」という論考において
「抽象」と「具象」という二分法がもはや成立しないという意味で
アンフォルメル以降、僕らはもう戻れないところにたたされている、という意識は
ケージやグールドの演奏と無縁ではないだろう。

そして、この演奏、
あるいは、この曲。

「抽象」という名の「具象」

バッハを語ること、クレーメルを語ること、そんなことをしたいわけではない。

ここにあるもの、そのことについて語りたかったのだ。
それは
音楽というものが、すでに既成概念として僕らを拘束しているということに向けての
覚醒された視線、なのかもしれない。

「抽象」という名の「具象」

音楽と建築をアナロジーで語ろうという試みがある。
しかし、「隠喩としての建築」とはなにか?
さらに、「建築」とは何か?
基礎があって土台があって、柱や壁があって屋根がある。
そういうことだろうか?
それが「建築」だろうか?
それでは、建築というもののわずかな一面しか見ていないことになろう。
建築とて、人の生きるこの世界に生まれたもの。
人というものの不合理の上に築かれたもの。危ういもの。
そして、
その「危うさ」の中にこそ、建築の魅力というものが潜んでいるという直感。
「危うさ」とは今にも崩れ落ちそうということではなく
そんなことではなく
人間というものが背負ってしまった得体の知れないなにか。
その何かを浮き彫りにするということ。
そのためには、
「建築」は「建築」という文脈を超えて受け取られる必要がある、
「音楽」はいったん「音楽」をやめる必要がある。

「建築」的に「音楽」をみると言うこと。
それは、基礎・土台・柱・壁・屋根を音楽の中に見いだすことではない。
そのとき、「音楽」的に「建築」をみると言うこと。

クレーメルのバッハの新録音を聞きながら
とりとめもなく、そんなことを考えた。

ギドン・クレーメル公式サイト
Gidon Kremer FREAKS(クレーメルファンの私設サイト-情報満載)


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2006年01月02日 08:00

コメント

fuRuさま

「明けましておめでとうございます」(もう時期はずれですが今年初のコメントということで。)

最近のfuRuさんの音楽記事は、詩的というか、哲学的な雰囲気ですね。
同じエントリを何度も読み返して、その時々で自分なりの注釈を加えては噛み砕いています。
すぐにコメントをしたかったのですが、言葉にするのが難しいので、保留しておきました。
でも今もまだまとまりません…

とりあえず、このエントリを読んで、クレーメルの無伴奏パルティータの新作と旧作を聴いてみました。
そうすることで、ほんの少しかもしれませんが、fuRuさんのおっしゃっていることが分かる気がしたことだけ、お伝えしておきます。

今年もよろしくお願いいたします。

投稿者 kompf : 2006年01月09日 14:57

kompfさん

この記事にコメントをいただいて、とても嬉しいですね。

この新録音のシャコンヌを聞いたときに
目の前に新鮮な空間が広がっていると感じました。
その空間のことを実は書こうと思ったのです。

もうひとつ、ちまたでは、わかりやすいということがキーワードになっていますが
人間というものは直感的に全体像を把握する力を持っています。
その力を信じると、力づくでわかりやすくして、その本質を失ってしまうことの怖さも感じるのです。
もっと、直感的に伝えられる言葉というものが大切にされるべきではないかというのも
この記事をこんなかたちで書いた理由のひとつです。
そうなっているかどうかは、別の問題ですが。

さて、空間の話。

音楽というものは場所を必要としていました。
要するに演奏する場所ですね。
音楽が響くとき、かならずそこに演奏者と聴衆がいる場所があった。
それは、コンサートホールや、ジャズクラブなどに発展してゆきます。
そして、レコードの誕生。
レコードが誕生した当初は
録音される音楽も場所を強く意識して録音されていたわけです。
それが、録音機材の発達により革新的に場所性が変わってきます。
ビートルズがスタジオに籠もったことや、
グールドがリサイタルをやめて、やはりスタジオに籠もったことが、それを象徴している。
しかし、とは言っても、ビートルズもグールドも
確固とした場所を前提として音楽をとらえていたと思っています。
ところが、このクレーメルの新録音を聞いたときに
僕の目の前には、場所と言うよりも
音それ自体の響きが、確固たる存在として現れてきた。
その存在は、コンサートホールやスタジオなどの現実の空間を前提としたものではなく
純粋に音楽的な場所として、音楽的な空間として立ち現れてきた。
そのことの新鮮な驚きをどう表現したらいいのでしょうか。
そして、その純粋に音楽的な空間というものが
実は、僕らが関わっている建築の空間の魅力というものと
実は通底しているという直感があったのでした。

これは、とても僕の個人的な感想以外の何ものでもないようなものなんですが
新年を迎える記事としては、きっとふさわしいと思ってエントリーしました。

これは、そんな、とても個人的な記事なんです。

というわけで、こちらこそ、本年もよろしくお願いいたします。

投稿者 fuRu : 2006年01月10日 11:10