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2006年06月30日

ULTRA BLUE---宇多田ヒカル

[音楽--music ]

ULTRA BLUE---宇多田ヒカル
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とにかく、聴いていると、宇多田ヒカルの言葉が印象的だ。
そこで、歌詞カードを読んでいたんだけれども
ちっとも言葉が頭に入らない。
言葉と、言葉が、印刷されている文字ではつながらず意味がつかめない、という不思議な体験。
しかし、いったん、そのサウンドのなかで立ち現れてくる言葉は
彼女の声帯から絞りだされる音をともなった言葉は
とても、とても自然に、耳に入ってくる。
その意味が伝わってくる。
メッセージがこちらに響くように届く。

それは、宇多田ヒカルの歌が、文語体の詩(し)ではなく、口語体の詩(うた)である、というだけではなく
今、僕らが生きているこの時の日本語というものに対して
彼女が、いかに自然体で受け入れ、自分の体と心を通して僕らに送ってくれているのかということの証ではあるまいか。

大げさかもしれないが、ここで聴かれるようなポップソングで、これほどまでに日本語が自然に歌われたと言うことが今まであっただろうか。

宇多田ヒカルは歌がうまい、という以上に、僕らの心に響くのは
彼女が、この時代を生きている日本語(言葉というものは生きているものだ)を、複雑に入りくんだ様に見える商業音楽の世界で、とても自然に素直に発している、という希有な才能によってであるのだ、と、僕はこのアルバムを聴きながら思った。そして、彼女の歌をこの時代に聴くことの出来る喜びに包まれる。

それにしても、4年ぶりなのであるが、今回はそのほとんどすべてのトラックを宇多田自身がプログラミングしているということに驚かされた。彼女は、自分をプロデュースしている。

殿下を最初に聴いたときに、僕が一番驚いたのは、ほとんどすべての楽器を自分で演奏して録音していたということだ。そのようなマルチな才能は、現在はパソコンのプログラミングによって、誰にでも可能になったのだが、そうした技術の進歩と良い音楽が作れることとは関係ない。自分一人でプログラミングする場合には、いかに客観的に自分を見ることが出来るかが問われる。そういう意味では、殿下も宇多田も自らをちゃんとプロデュース出来ているということに感心する。今の時代は自分で自分自身をプロデュースする時代なのかもしれない。

<蛇足>
映画「CASSHERN」(2004年)のエンディング曲「誰かの願いが叶うころ」では、麻生久美子の姿を思い浮かべてしまった。


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2006年06月30日 08:00

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