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2006年08月09日

「田舎で暮らす!」---田中淳夫

[books ]

「田舎で暮らす!」
著:田中淳夫 平凡社新書
amazon

「だれが日本の『森』を殺すのか」なんていう、すごいタイトルの本も書いている著者の最新刊である。

この本は田舎暮らしの指南書であるとともに
田舎の暮らしと都会の暮らしを対比させることによって
暮らしとは何か?生きるとは何か?ということまで問うている本だ。

それは、冒頭にあるこんな言葉から始まる。

現代社会では村八分という言葉は死語になりつつあるが、地元の人々が行う村八分ではなく、移住者側が地域を無視する村八分は起きている。田舎に求めるのは自然環境だけで、人にも地域にもなんの世話も受けないと考える都会人がいるようだ。

(中略)

だが人は、住むだけでその地域から何らかの恩恵を被っている。水も緑も風景も、みんな地域の人々が作り上げてきた。道一つとっても、何度も陳情して敷設したのかもしれないし、地主が無償で土地を供出したものもある。ゴミの収集や道路補修などでも世話になるし、災害時や医療でも地域社会抜きでは支障が出るだろう。それらを公共のものだからと使用して当然と思うようでは、田舎のパラサイトである。

「田舎のパラサイト」ならないためにどうしたらいいのか?
先住者との良好なコミュニケーションが必要だろう。
だが、一方で、人の生活にどかどか入り込んでくるような
プライバシーの欠如とも思われる、田舎の人々の付き合いに躊躇する人も多い。
しかし、著者はこのように言う。

基本的に自分はよそ者だ、という意識を持つことも大切だ。長い歴史の中で育んだ文化を持つ地域に、まったく連続性のない自分が入るのだから、謙虚さとともに溶け込むのは三代この地に住んだ孫の代からだ、と割り切るくらいの気持ちも必要だろう。

そして、

人づきあいの上手さ下手さは、都会も田舎も変わらないと私は思う。都会に住んでも、町内や会社でトラブルを起こす人はいる。気分を害することでも、それをいかにクリアするかによって、その後の人間関係が変わる。声高に抗議するよりも笑っていなす。冗談に紛らわす、機転を効かせて話題を変える・・・などの会話のテクニックにより揉め事を起こさずに済む。

さらに続けて、

田舎の人間関係で嫌な目にあった人は、往々にして「だから田舎は・・・」と発言をすることがあるが、それはお門違いだろう。都会のマンションでもニュータウンでも、トラブルは存在する。それなのに田舎に移り住むと、地域のせいにしがちだ。 都会でうまく暮らせなかった人が、田舎なら暮らせると思うのはおかしい。社会で暮らす能力は、どちらでも必要なのである。

と、かなり手厳しい。

しかし、10年以上にわたる取材で見聞きした事実がその背景にあった上でのこの厳しさを考えると
今までにあったような、夢見る田舎暮らしの本とは、明らかに一線を画していることがよくわかると思う。

最後に、著者は「ソーシャル・キャピタル(社会資本)」という考え方が
田舎暮らしをのぞむ都会の人と、それを受け入れる田舎が、ともに成功するためには必要であるという。

地域の活力を計る物差しとして、最近注目されているのが、ソーシャル・キャピタルという考え方だ。(中略)大雑把に言えば「一定地域の住民の信頼や規範、人脈、そしてやる気などの地域の活力」となるだろうか。 それは縦構造ではなく、たいてい横のネットワークの中に生まれ、暗黙のルールで規律が保たれている。古くは縁戚や隣近所の町内会や婦人会、老人会のほか、農協とか消防団といった既成の組織内で育ったが、最近ではボランティアグループや、環境や福祉などの理念で結びついたNPO組織も登場している。

ともあれ、この「見えない資本』が、地域づくりや起業など経済活動を行う際に大きな助けになるというのだ。逆に言えば、ソーシャル・キャピタルが少ないと、いかに立派な地域づくり計画を持ち出そうと機能しにくい。内向きの結びつきが強すぎると、よそ者を受け付けなかったり、組織が暴走する可能性もあり得るが、開放的なネットワークを築いていたら、異なった発想を取り込み新しい動きを歓迎してくれるだろう。

この理論を当てはめると、ソーシャル・キャピタルの十分にない地域は、将来的な展望が開きにくい。どんどん行政サービスは低下し、人口も縮小しがちだ。移住者の活躍する場も少ないかもしれない。逆にソーシャル・キャピタルが大きければ、活気のある暮らしを展開できるのではないか。

こうした点も『理想の田舎」探しの際に気にかけておくべきだろう。同時に、移住者もソーシャル・キャピタルの育成に参加してほしいと思う。

移住者がソーシャル・キャピタルを育てる意識を持つことと、
迎え入れる側にもソーシャル・キャピタルを育む意識があることが、大変重要だということだ。

そして、これは、田舎と都会という対比をこえて
いかに充実した生き方が出来るかということにつながっているのだ。

○著者である田中淳夫さんのブログ
だれが日本の「森」を殺すのか&田舎で暮らす!


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2006年08月09日 09:45

コメント

はじめまして、あちこちクリックしてる間にたどり着きました。
四半世紀田舎暮らしをして、また最近、都会暮らしが始まり、少々とまどっている自分です。
地域と繋がることの大切さ・楽しさが、田舎を離れてしみじみとわかります。
逆に都会での繋がり方を模索しているところです。

投稿者 こーこ : 2006年08月09日 10:47

こーこさん、こちらこそ初めまして。
いろいろクリックしてたどり着いたというのは、なんだか運命のようなものを感じますね。
えっ?感じない?そうですか、その辺は人それぞれですね。
田舎暮らしと都会暮らしというのは、なかなか面白いテーマだと思うんですよね。
かく言う私も、高校まですごしていた街は、かなりの田舎、駅もない、見渡せば水田が広がる、そんなところでしたし、近所の方々との濃密なコミュニティがあって、こっちは知らずとも、すれ違いざまに、あそこの子供だよね、なんて言われるとびっくりしていたりして、このおばちゃんは僕のことをどこまで知っているんだろう、と思ったり・・・。
そんな田舎が嫌で東京に出てきたということもあるんですが、今となっては、そういう地に足の着いたコミュニティに猛烈に恋いこがれる自分がいたりします。人って、勝手なものですね。

投稿者 fuRu : 2006年08月09日 11:06

地域という視座から考えますと、この本の「田舎」というワードを「東京地方」に、
「都会」というのを「東京以外の地方」と言い換えても、同じことが言えそうです。
東京は、なにをやってもいい特殊な地域だと考える人間が、特に戦後から激増
しているようですが、地元の人間にしてみればたまったものではない・・・という
感覚が、親世代やわたしの世代の“思い”として常に強くありますね。
そこに代々先住している人たちを、まず一義的に考えて配慮する、あるいは話
に耳を傾けるのは、日本じゅうの「田舎」や「都会」に関わりなく、どの地方へ行
ってもあたりまえのことだと思うのですが、「東京」だけはそんなことをしなくても
許されるという幻想でもあるのか、大きく履き違えている人間が多いように感じ
ます。
もともと東京は、江戸の昔から「ソーシャル・キャピタル」の宝庫なわけですが、
それにすら気づかない、あるいは参加しようとしない「東京八分」人がなんと多
いことか。(笑) 東京だって一地方であり、連綿と住みつづけてきた人間のいる
「田舎」に違いないわけですが、「東京八分」人はカネにものを言わせ、次々と
町のコミュニティや景観を破壊して恥じないですね。
この感覚、「田舎暮らしをしよう」と考えたどこかの「都会」の野暮なカネ持ちが、
村の慣習や伝統、人間関係をいっさい無視して、傍若無人にふるまう行為と
本質的には変わらないと思うのです。

投稿者 Chichiko Papa : 2006年08月09日 12:26

まさに、Chichiko Papaさんが指摘されているように
「田舎」と「都会」ということを非対称的に対比して考えるのではなくて
そこでの人の活動はどうあるべきか、どうしたら充実したものになるのか
都会人も田舎人も同じ人間だ、何も変わらないのだ、
という視点でこの本には書かれています。
それが、この本が、都会人から見た桃源郷、などという幻想に振り回されない「田舎暮らし本」になっている重要なポイントだと思います。
ソーシャル・キャピタルが最後に取り上げられるのも、都会で築けなかったソーシャル・キャピタルが、田舎にいくと作れるような幻想を、断固として断ち切りたいという著者の気持ちの表れなんだと思いました。
そうした広い意味で、田舎に暮らそうなんて考えていない人も、この本を読んで自分の生活をよりよくするための考え方を教えられるような、そんな好著だと思います。

投稿者 fuRu : 2006年08月09日 12:58

fuRuさんのブログに、こーこさんがたどり着いたとは。
それには私のブログの存在も運命的に関係していたのかもしれません。
かつて福生のデペンデントハウス生活を経験されたことのあるこーこさんです。

毎晩、Skypeで「田舎」と「都会」を結んで家内と定時連絡する日々が1年続いています。
いろいろなテーマで感じたこと、気づいたことを話しあってきました。そこから「田舎暮らし」がどんなに難しいか理解できつつあります。
ソーシャル・キャピタルの恩恵に与るには、まず自分の体力が相当ないとだめなこと。
田舎/都会でなく、生活が地に着いていて知恵のあるコミュニティが存在する地域をみつけること。
など、すでに地方で生活を始めている別な知り合いからも多くのことを教えてもらいます。

かつて東京でコンセプターをしていた友人は、仕事で知り合った遠野の地へ家族で移住してグリーンツーリズムの仕事をしています。彼のブログを紹介しておきましょう。
「遠野山里暮らしな日々」
http://d.hatena.ne.jp/tokuyoshi/

投稿者 栗田 : 2006年08月09日 14:57

こーこさんは、栗田さんのお知り合いだったのですね。
どちらから来られたのかなあ、なんて思っていたところでした。

>ソーシャル・キャピタルの恩恵に与るには、まず自分の体力が相当ないとだめなこと。

ほんとにそうだと思います、体力、ですよね。身体が動かなくてはなんにもならない。

僕が田舎暮らしに関心がある一つの理由は
そこでは、地に足の着いた生活に真摯に向かい合う必要があるからなんだと思います。
しかし、この本を読んで、そうした地に足の着いたコミュニティというのは
田舎にあって、都会にない、というような単純なものではないということを教えられました。
そして、地に足の着いたコミュニティの維持と活性化には体力がなくてはならないだろうということです。

逆に、田舎暮らしを目指さなくとも、都会に住んでいても、ブログをやっていても
地に足の着いたコミュニティに所属したのならば、体力が必要と言うことです。

体力の必要性を今更ながらに感じています。

投稿者 fuRu : 2006年08月09日 15:20

こーこさんみっけ!

ご無沙汰してます。りりこです。
わが両親も15年以上前に八ヶ岳に移住。
同じころに移住した人たちはみなさん組に入られたようですが
ここ5年ほどの間に越された方は組には入られないようです。
それでもゴミは捨てるし、回収には物を出すし、お祭りには参加している。
草取りも雪かきも参加しないで、そういうのってなんか変だなと感じています。
うちはとうとう70代半ばを過ぎた実母ひとりぐらし車ナシという暮らしになり
ご近所には本当にお世話になっている上に、
組のお役目も免除していただいているようです。
それまでいろいろやってきたからこそのことで、
若くなくなったら新しい住人たちは
八ヶ岳南麓から撤退せざるを得なくなるのではないかと感じています。

投稿者 りりこ : 2006年08月09日 22:28

こーこさんとりりこさん、と、これまた声に出していて響きが良い組み合わせに
不思議なものを感じてます。

いろいろなところで話題になる、団塊の世代の一斉定年退職。
大量の未就労者が世に送り出されるということなのですが
特に団塊の世代には田舎暮らしを希望される方が多い傾向にあるという調査があります。
そこで、一攫千金と、田舎移住計画にあわせるような、過疎地でのニュータウン、あるいは別荘地の計画が
これからどんどん実行されるような気配もあります。ここで一儲け出来るかどうか、目を皿のようにして状況を分析している人も少なくない。

でも、りりこさんが言われているような、世代から世代につながってゆくような仕掛けを無視すると
「八ヶ岳南麓から撤退せざるを得なくなるのではないか」
ということになってしまいますよね。
「ソーシャル・キャピタル」が有効に機能していることが、いかに大切かってことだと思います。

投稿者 fuRu : 2006年08月10日 09:40