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2007年04月20日

「川は誰のものか」---菅 豊

[books ]

「川は誰のものか」
著:菅 豊 出版:吉川弘文館
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新潟生まれの私にとって
おいしいシャケは「村上」という地名と分かちがたく結びついています。
この本は、新潟県村上市の北、岩船郡山北町の大川流域における鮭漁をめぐる話です。
大川は昔からシャケがのぼる川であり、
鮭漁による利益を流域の人々が共有してきました。
その歴史をたどり、それを「コモンズ」の一例として紹介することによって
「コモンズ」とは何かということにふれています。

著者によれば「コモンズ」とは

複数の主体が共的に使用し管理する資源や、その共的な管理・利用の制度

ということになります。

本書では、まず、「一網打尽」と言われるような流網漁を、大川流域の人々がとらず、「コド」と呼ばれる古風な仕掛けによる漁をしていることに注目します。
歴史をひも解けば、大川流域でも流網漁がなされていたそうです。しかし、それは歴史の闇に忘れ去られてしまいました。流網漁は、効率的で人件費も時間もかからず大きな成果が期待される方法です。なぜ、そういう方法が定着せず、昔ながらの仕掛け漁が生き残り今まで続いてきたのでしょうか。

文献によれば、流網漁が鮭の収穫を少数のものに集約させてしまい、それが原因で流域の村々への鮭の分配がアンバランスとなり紛争が絶えなかったとのこと。

川はみんなのもの、仲良く使いましょう、というようなきれい事が歴史にあったことはなく
川によってもたらされる利益の奪い合いが流域の人々によってなされていました。
それはこの大川でも同じです。
神経質なほどの縄張り意識が生み出すそうした紛争をなくすために、シビアな境界線の確定、
そして、「コド」を仕掛ける場所の入札による決定など、さまざまなルールが長い時間をかけて作られていったのです。

そのルールの一つが、原始的な「コド」による仕掛け漁を中心にやってゆこうというものでした。

明治になったときに、国が定めた管理システムに縛られそうになりながら、流域の人々が自主的に自らのルールを基本的に守り抜いたということにもふれられています。

そして、現代。
鮭漁はかつてのような富を村々へのもたらすことはなくなりました。
しかし、大川流域では今でも「コド」による漁が続けられています。
もちろん生活に必要なためではありません。
村人に聞けば、それは大きな楽しみであるのだといいます。

「コド」による漁は仕掛け漁ですから、見張りが必要です。その見張り番のための小さな小屋が仕掛けのそばに建てられました。村人はそこにお酒をもって出かけ飲んだり食べたりしながら、仕掛けに鮭がかかっているかどうか待つわけです。その時間が、なんとも楽しいというのですね。
また、捕れた鮭はその半分が贈り物として配られるのだそうです。鮭をもらった人はそのお返しに見張り小屋にお酒を持って出かける。そういう持ちつ持たれつの関係が村人にとってとっても大切なんですね。
これは人と人との信頼関係であり、村を運営してゆくために必要な人間関係が、鮭を通して培われているということです。
川はみんなのものという「コモンズ」の話が、社会関係性資本「ソーシャルキャピタル」を育んでいるのだという話につながっているのでした。

<蛇足>
昨日注文したルーターで実現する「fon」のネットワークは
インターネットは誰のものか、という問い掛けにつながります。
「fon」とは、それぞれの利用者が自ら契約しているインターネットの契約の一部を、無線LANとしてこのムーブメントに参加している人に提供しようと言うことです。
こうして共有化された無線LANによるインターネット環境があちこちに増えれば、我々はおおよそどこにいてもモバイルインターネットのサービスを享受出来ることになります。それも基本的に使用料は無料で。
これは、新しいインターネットの世界の「コモンズ」ではないでしょうか。
そこで生まれるであろう利益に関しても、歴史が教えてくれる「コモンズ」にならって、参加者で共有される日が来ることを夢想してやみません。
また、その「コモンズ」が、新たな「ソーシャルキャピタル」を生み出すに違いないことでしょう。


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2007年04月20日 10:45

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