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2007年09月01日

「ノルウェイの森」---村上春樹

[books ]

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「ノルウェイの森」
著:村上春樹 発行:講談社
→amazon ()(

奥付けを見ると1987年9月の発行になっています。
初版で読んでいますから、20年ぶりでの再読です。

「海辺のカフカ」を知っている今となっては小節の奥深さ・広がりに少し物足りなさを感じるのも確かですが、20代で初めて読んだ時のあの空気がしっかりとよみがえってきました。と、同時に、「あれ?」という部分も少なくないですね。それは、やっぱり、ちゃんと読んでいなかったということなんでしょう。けれども、小説というものに込められている情報量の多さを逐一まんべんなく受け止めるなんて不可能。人により反応するところは様々。もちろん、勝手な思い込みはいけませんが、究極的には小説の読み方に客観性なんてありません。裏を返せば、小説というものは読み手にまかされたものなんですね。
そして、20年も経てば読み手も変わります。変わるからこそ、本を読み返す楽しみも出てくるのです。

ところで、変わってゆくのは私たち自身だけではなく私たちの生きているのこの社会もですね。

今回、読み直していて一番引っかかったのは「手紙」の多さです。
主人公はとにかく「手紙」を書きます。
学生寮にいる彼は、自分の電話を持っていないので電話のやり取りも寮の電話の取り次ぎだったり公衆電話だったり。私も学生の頃は自分の電話を持っていませんでした。まあ、同じような境遇だったのですが、自分の電話を持っている学生は圧倒的に少数だったと思います。
ですから、「ノルウエイの森」を読んだ時もまったく違和感を感じる事はなかった。
ちなみに、私は学生時代に よく友人に「手紙」を書いていました。

主人公が「手紙」を書く相手は、療養中の直子である事が多いのですが
玲子さんにも、近くに住んでいる緑にも書きます。
近くの緑にどうして、ということなんですが
緑に電話をするとお姉さんがでて、緑は電話に出ないという。
そういうシチュエーションからせっぱ詰まって「手紙」を書くのですね。

この20年で我々の通信手段は大きく変わりました。
一番は、やはり携帯電話の普及でしょう。
そして、インターネット、電子メール。
携帯電話も電話としてではなく、
つまりは通話に使うのではなくてメールをやり取りする携帯端末としてその役割を担うようになっています。

私は、携帯でメールが出来る以前から携帯電話を使っていますし、メールといえばパソコンの電子メールから入っていますから、携帯電話でメールをするのがどうしても苦手です。
苦手の原因の一番は、文字入力なんですね。やはり、しっかりとしたキーボードでのローマ字入力に慣れていると携帯の入力方法はまどろっこしい。頭の中に浮かんだ文章が操作に手間取り消えていってしまうのです。
私としては、携帯の入力方法でしっかりとした文章を書く事は難しい。これは単に慣れの問題かもしれませんが、それだけではないと感じています。

携帯の電子メールのやり取りも「手紙」といえば「手紙」です。
そういう意味では、今ほど人と人が「手紙」をやり取りするようになった時代はないのかもしれません。でも、紙に書く「手紙」とは根本的に違うものがそこにはあります。
紙に書く手紙には、書いてからポストに投函して相手に届くまで一定の時間差がありますが、
携帯のメールには時間差がない、あるいは時間差をなくそうとしているように見えるからです。
時間と空間の感覚が決定的に違うのですね。

さて、本題に帰りましょう。
「ノルウエイの森」は「距離」の小説だと私は思っています。
決定的な主人公と直子の「距離」。
直子と社会との「距離」。
英語で言えば「distance」。
触れ合えぬ事。
決然と触れ合えぬ事。
触れ合えぬ悲しさがこの小説の中に通奏低音のように響き渡っています。
触れ合えないから伝えたい、つながりたい。
人と人。個人と個人。個人と社会。
人は言葉を使い文字を使う。
この小説の中で「手紙」はとても重要なのです。

「ノルウエイの森」を、今読む事。
それはいったいどういう事なのか。
「手紙」を巡り、そんなことを考えていました。


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2007年09月01日 11:40

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コメント

こんにちわ
ノルウェーの森は村上春樹の唯一の私小説なのでは....
テーマを一貫化してきた村上公人が、はじめて村上私人となった小説のような気がします。
個人と個人、社会と個人との距離もあるし、村上本人のなかの距離もありそうです。
ところでこの小説を読んだ当時、津田塾とか武蔵美とか国分寺とか、
身近な舞台を想像して読んだのですが、furuさんいかが?

投稿者 shin : 2007年09月01日 13:43

shin さま
それが私の場合には、あの国分寺界隈をイメージしては読んでいませんでしたね。
「早稲田」というイメージの方が強かったからかもしれません。
ピーターキャットというお店の存在も
ジャズが好きな学生を自負していたのに当時は知りませんでした。
ちなみに、和敬塾のそば(目白)で働くようになって
小説の舞台になったのがここだったのかと納得していたりします。
目白界隈から下落合-早稲田にいたるエリアは
今さらながらこの小説の空気によくなじむと思います。

投稿者 fuRu : 2007年09月01日 15:26

何故か「ノルウェーの森」と「池袋」「大塚」が重なってイメージされるので、よ〜く考えてみたら、「ノルウェーの森」を読んでいた頃、池袋サンシャインの裏の教習場に通っていて、仮免の路上教習でその周辺がコースになっていたからでした。ん〜、そんなの関係ない、か。

まぁ「ノルウェーの森」を読んで"The Beatles"のアルバムを一つも持ってない事に気づき、今更ながら"Rubber Soul"のCDを買ったくらいですね。"Norwegian Wood"が1965年か、あの頃って"The Beatles"は空気みたいにラジオから流れていたから、ちょっと、そんなの関係ない、て感じでしたね。

投稿者 iGa : 2007年09月02日 00:26

iGa さま
うーん、iGa さんらしいコメント、どうもありがとうございます。
そうですか、ビートルズに対しては斜に構えてられたのですね。
きゃーきゃー騒ぐ女子なんて、・・・ですよね。

ちなみに、うろ覚えで確認もしないでコメントしてしまいますが
緑の実家の本屋さんは大塚にあったのではなかったでしょうか。
iGa さんが大塚をイメージしてもおかしくないと思った次第です。

投稿者 fuRu : 2007年09月02日 01:23

読み返したくなってきました。
私も学生時代読んで、しばらく頭から離れなくなった小説でした。
私は目白界隈にいながら、もう少し山の手線の内側(中央線)をイメージしていました。
私は何事にもすぐ結論を出したくなるので、当時でも主人公の行動のペースがとても自然のように思えてうらやましかったです。
あと、fuRuさんのおっしゃる「変わるからこそ、本を読み返す楽しみも出てくる」というのはアートの鑑賞にも通じますね。そのときどきの鑑賞者の心身の状態によって、体験できることは全く異なってくるのですから、、、、。

投稿者 羊のjun : 2007年09月02日 10:29

羊のjunさま
最近はずいぶん前に読んだ本を読み返すことがあります。
この本もその一冊なんですが
やはりずいぶん印象が違うのですね。
それが不思議な感じで、小説の持っている空気は同じなのに
ディティールの見え方が違うというか、そういうことなんですね。
この違いは、つまりは自分の変化を表していると思うわけですから
それは自分を振り返ってみているということになるわけです。
過去の自分と今の自分を並べてみることで自分を相対化出来る
つまりは分析できるということでしょうか。
ある程度 歳をとらないとわからないことって、やっぱりあるんだなと強く思う毎日です。
羊のjunさんもぜひ再読されてみてください。

投稿者 fuRu : 2007年09月02日 22:34