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2009年04月21日

金氏徹平展@横浜美術館

[アート--art ]

私たちはなぜ美術館に向かうのでしょうか?
ひょんなことからチケットをいただいて
横浜美術館で開かれている金氏徹平展にでかけ
そんなことを考えていました。

美術とは視覚的な刺激によって人に何らかの生理的な反応を及ぼすもの、
という乱暴な定義からすると
写真の誕生と普及により、人の視覚的刺激が地理的限界を超えて拡張されていった20世紀を通じて、美術そのものが変質していったのは自然な流れだったといえるでしょう。
美術愛好家は丹精に編集された画集のコレクションにも興味心身です。
美術は画集のなかにあるという本末転倒も笑えない時代です。
画集が売れないとアーティストは困ってしまうからです。

金氏徹平の手法は一貫して「コラージュ」です。
写真から日用品までさまざまなものが彼の手中で組み合わされて「作品」となります。

「コラージュ」とは写真の誕生とともに定着した手法。
シュールリアリズムとも深くつながっています。
いやいや、コラージュとはシュールリアリズムそのものであるのかもしれません。
写真という存在が実はコラージュです。過去と今を同時に見ることを可能としたのが写真だからです。次元の異なるものを隣同士に並べること。傘とミシンのたとえを出すまでもないでしょう。

写真の誕生と普及はわれわれの視覚、眼の欲望、にとって不可逆な変化を強いてきたと思います。夢と現実の狭間のような夢遊病のような世界の出現。それもすべて人々の欲望から生まれたわけです。

そして写真はデジタルとなり、インターネットという仮想空間を飛び交うようになりました。手元にないのに見ることが出来る。画像の解像度がうなぎのぼりに上がり、ネットのスピードも同時にヒートアップしてゆく現代、「空想の美術館」は決して空想ではなくなっています。美術は遠くはなれたところへ流通を始めます。
その状態こそがシュールリアリズムそのものなのかもしれません。現代社会はシュールリアリズムの世界だ。

そうした現代性の中でアーティストたちにとって美術館とはいったいどういう場所なのでしょう?

美術に触れるために、われわれは美術館まで出かける必要があるのでしょうか?

高解像度の画像で事足りるのではないでしょうか?
ウエブカメラで作品を自分の思うがままに眺め回すことだって可能なのです。
それ以上、あなたは美術に何を求めるのでしょうか?

金氏徹平のドローイングは広い展示場の壁を端から端まで一本の線でつないでいます。その一本の線は彼の作品を取り囲んでいます。そして、われわれ観客も彼の作品に取り囲まれています。
あらゆる方向からの彼の作品の磁場の干渉に身をおくこと、がそこにはある。これは、見ることと直結しているけれども、見るだけでは生成し得ない現象かもしれない。
見るだけではなく、見られる、それも複数の目に見られる感覚。

そして、彼の巨大な映像作品。
あれほど巨大な映像作品は初めて見ました。解説を見ればブルーレイディスクと書かれています。ハイビジョンで製作されていることがわかります。
さらには、巨大なインスタレーション。
巨大さは、見る見られるの関係を別の次元にずらします。
それは、会場にある彼の作品と私たちの新たな関係性を生成しているように感じます。

美術館には生成の場がある。
見る見られる関係を超えた新しい関係性を生成する場がある。

この新しい場こそが美術館。
この場は流通しない。そこでじっとしている。

写真として流通すること、映像となってインターネットなどで流通すること。
しかし、金氏徹平の作品に共通しているのは、そうした、情報として流通することへのアンチな視線なのです。

金氏徹平の作品に囲まれて、私は美術館に行かなくてはだめだなと思いました。
われわれ自身が流通し磨り減ってしまわないためにも。

<2009.04.22.加筆修正>

金氏徹平展
溶け出す都市、空白の森
5月27日まで 横浜美術館にて


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2009年04月21日 11:30

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