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2006年02月09日

カメラ、って?

[いろいろ--misc. ]

カメラってなんだろうと思う。
それは、写真ってなんなんだろうという問いかけと同じ。

カメラの不思議は
シャッターを押す人は撮影している映像を決して見ることが出来ないということ。
誰かが言っていたことを思い出す。(ソンダクだったっけかな)

「コンパクトカメラ」のレンズとファインダーが別なのは言うまでもないけれども
「一眼レフ」というのも、シャッターを切った瞬間
つまり、レンズが映像をとらえている瞬間、
ファインダーは暗転し映像(光)はフイルムに送られる。
だから、実際に撮影した瞬間の映像(光)を撮影者は見ることが出来ない。

ここにカメラの不思議がある。
撮影する人が、その見えていない瞬間をどこかで補うこと、
それが、実は写真の魅力を創造しているんだということ。

かけているものを補う力、それが写真の魅力の源泉。

あるカメラ雑誌で、ソニーの開発の方が
CCDで撮影される映像をリアルに確認できることが大切だから
デジカメのファインダーは光学式ではなくモニターにして
CCDに伝えられる情報をそのまま確認できるようにするべきだ、
そうすれば、シャッターを押した瞬間の映像も撮影者は確認することが出来る、
それが銀塩カメラには出来ないデジカメの優れているところだ、
というようなことを言っていたのを読んで違和感を感じました。
ここには、かけているものを補うという写真の魅力を創造していた部分が欠落しています。

最近の社会は○×をはっきりさせることを急ぎすぎている感じがする。
もっともっと、現実の生活には、かけている部分や、白黒はっきりしない部分が多いのに
それをそのまま受け入れる余裕の欠如すら感じられる。
念のために付け加えるけれども、
そのまま受け入れるというのは無批判に受け流すと言うことではない。
はっきりしないこと、かけている部分、それらを補う想像力が試されるということだ。
そして、社会から想像力が消失してゆくことはとっても怖いことだ。

先のソニーの開発者の言葉には
想像力を試される、というカメラの魅力が
そっくり抜け落ちているようにしか思えない。
見えているものを見えているものとしてしか受け取れないというのは
想像力の欠如ではないか。
見えていないものを見えているものとして受け取れることが大切なはずだ。

<蛇足ー1>
ひいきにしていたNIKONが銀塩カメラから撤退し
デジタルに完全移行するというときに
心臓部であるCCDをこういう会社(ソニー)にゆだねているというのは
いかんともしがたい、です。

<蛇足-2>
iTunes Music Storeも
参加するきっかけを失ってずるずるもがいているとしか見えない。
どうなっているの、ソニー。

投稿者 yasushi_furukawa : 2006年02月09日 09:45

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コメント

>見えているものを見えているものとしてしか受け取れないというのは
想像力の欠如ではないか。
見えていないものを見えているものとして受け取れることが大切なはずだ。

とてもとても生意気ですが、このことを今の日本人は忘れる事が多いような気がします。
「おかげさま」とか「ありがとう」とか「おてんとうさまが見ている」とか、そういうベタなベタな言い方の、でもとても大切な事。
カメラのお話から外れるかもしれないけれど、私、本当にそう思います。

投稿者 kazoo : 2006年02月10日 14:56

kazooさんが答えてくださっているとおりのことを
カメラの話を通して書きたかったのです。
とっても、うれしいです、はい。

それにしても確定申告が終わっているkazooさんがうらやましい・・・(うらめしい?)。

投稿者 fuRu : 2006年02月10日 14:59

銀塩カメラからデジタルカメラへの移行というような時代に、それが何を生み出すのかという試行錯誤に揺らいでいるのでしょうね。
カメラ・オブスキュラという暗箱の画像を、銀塩という化学処理によって定着するという技術が写真の起源とするなら、180年ほどの時間、写真を撮るという行為がどこでも誰でもになったのは50年ほど前というところかと思います。
写真、カメラとは何なのか、まだまだこれからも揺れ動くのではないでしょうか。

投稿者 AKi : 2006年02月11日 10:18

AKiさん コメントありがとうございます。
デジタルカメラへの移行というテクノロジーの問題以前に
大げさなようですが、テクノロジーとは何かという問題を
ソニーの開発者のコメントは、はらんでいるのではないか。
そして、その問いかけに対して、カメラとは何かという問いかけを持って考えてみたわけです。
これまた大げさなようですが、
テクノロジーとは何か、という問いは、
人間とは何か、あるいは豊かさとはなにか、という問いに等しいと考えています。
そして、実は見えていない部分を見せるというカメラの構造が
写真という表現を生み出しているのではないかということを
しつこく問い直してみることが、今の時代は忘れかけているのではないかと
そんなことを考えながらこの記事を書きました。

投稿者 fuRu : 2006年02月11日 12:05

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