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2004年12月20日

「僕の叔父さん網野善彦」--中沢新一

[books ]

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「僕の叔父さん網野善彦」
著:中沢新一  集英社新書 (0269)
定価:698円  →amazon

1968年1月。佐世保港にアメリカの原子力空母エンタープライズが給油のために入港。
それを阻止せんと立ち上がる学生と労働者。機動隊との衝突。
機動隊に投げられる石、石、石。
テレビが報道するそんな映像から、「飛礫(つぶて)」についての中沢新一の父である中沢厚と網野善彦のやりとりが始まります。
彼らは何に向かって石を投げていたのでしょうか?

我が家には、娘とその弟の二人の子供がいます。
娘は4歳9ヶ月。息子は2歳8ヶ月です。
二人ともある時期に、ものを投げ始めました。
その手に持てるものならば、固かろう柔らかかろうが何だろうが、あちらこちらに向かって投げつけてきます。
うっかりしていると、こっちも傷を負うわけで、
こんなことを、よその人にやったりしたら大変と、とても厳しく叱ることになるわけです。
そんな激しい一時期の戦闘状態を過ごすと、物を投げることから彼らの興味関心は少しずつ離れてゆきました。
子供たちはいったい何に向かって物を投げていたのでしょうか?

中沢厚が自分の小さい頃の投石合戦の遊び(血まみれになって遊んだ)を思い起こし、佐世保の投石にその記憶を重ね合わせます。
僕は、そんなことが書かれている本を読んで
自分の子供があたりかまわずに物を投げつけていたことを思い起こしていました。

中沢厚はこう言います。

あそこで、機動隊に向かって石を投げていたのは、ただの政治かぶれの学生なんかじゃなくて、もっと大きな意思にうごかされているものではないのか。その意思というのは、マルクス主義とかレーニン主義とか毛沢東主義とかいう近代の政治思想なんかにとどまるものじゃなくて、もっと根源的な、人類の原始から立ち上がってくるなにかじゃないかって思った。

中沢はけっして、その暴力沙汰を肯定しているわけではない。
人間の意思を表明する最も根源的な力が物を投げつけるという行為に表れたのではないかということ。
なにかに対して意思表明すること。自由を束縛するものに対して意思表示すること。意思表示する衝動。掴んだものを投げる。
子供たちの「野生」に「たが」をはめることが「社会化」することだいうことに異存はありませんが、そこにはいつでも葛藤が存在します。その葛藤は子供の成長と共に、オブラートに何重にもくるまれ、よく見えなくなって、味もしなくなっているのだけれども、そういう葛藤を感じる続ける感性の大切さなんだと思うんですね。

以前にエントリーした大江健三郎の「自分の木の下で」には、子供と大人はしっかりとつながっているという事が描かれていました。大江が言いたかったのは、そういう感性を持ち続ける大切さだったのではないでしょうか。

村上春樹は、J.D. サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に、innocenceというキーワード=視点を通して、「社会という制度の中で生きること」にともなう主人公の葛藤を普遍的なテーマ(彼の言動を通して描かれた)として見つめています。

ここは「想像力」の勝負なんだと思うんです。既成の制度に惑わされない「想像力」。既成の制度に影響されて右往左往したりしてあわてないための「想像力」。野生と制度との葛藤をいつも感じることが出来る「感性の原動力」。その「感性の原動力」を見失わないための「想像力」。そして、その大切さ。

中沢新一のお父さん、中沢厚。そして叔父さんである網野喜彦。この二人のやり取りにそうした「想像力」と「感性の原動力」を感じました。

それから、「飛礫」とともに「貨幣」についても刺激的なやり取りが交わされます。
こちらは、網野善彦と中沢新一のやりとりです。

二人のやり取りは、八重山群島の仮面の神と貨幣が実によく似ていることを浮かび上がらせます。
一部分を引用します。

貨幣は飛躍するのである。飛躍して、違う存在のレベルのあいだを自在に行ったり来たりする。そして、商品の所有者と商品との「縁」を切り、「無縁」となった商品たちが完全な平等の資格で立ち並ぶ「市場」に集合してくるのをうながしているのも貨幣ならば、貨幣量の多い少ないという年齢階梯制にも似た「数量階梯制」をもって、商品が行き来するその空間に秩序と正義を打ち立てているのもまた、貨幣なのである。

これは

いまだに貨幣経済などが発達していないところに、すでに貨幣の原形が出現していることを見出さなくてはならないような話である。

ここに網野善彦の「アジール」を読み解く重要な鍵があるのだと中沢新一は言っているように思えます。

この本には、もうひとつ「天皇制」をめぐる話がありますが、こちらは本を読んでいただいたほうが良いでしょうか。ただ、中沢新一のこの言葉が印象的でした。それは、中沢の目の前を昭和天皇が通りすぎた時に彼が感じた感動でした。

なにかとてつもなく無垢なものが、自分の前を通り過ぎていったように感じたのである。

中沢新一は何を感じたのでしょうか?
もちろん中沢は、その無垢さに神聖なものを見出して、天皇の神性を発見したわけではなかったのです。

というわけで、この本は、網野喜彦という歴史学者の考えてきたことを中沢新一の目から解説しているという本です。網野喜彦という巨大な世界への入門書としてもとても興味深いものなのではないかと思います。

<補記>
My Placeの玉井さん。aki's STOCKTAKINGの秋山さんがそれぞれのブログにエントリーされているのを読ませていただいて心引かれ手にした本です。
お二人の言われる通り、大変に面白くて興味深い本でした。


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投稿者 furukawa_yasushi : 2004年12月20日 19:39