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2005年02月16日

「意識とは何か-(私)を生成する脳」---茂木健一郎

[books ]

「意識とは何か---(私)を生成する脳」
著:茂木健一郎 ちくま新書
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僕らは意識しないで普段の生活をおくっている。
目の前の緑色の葉っぱがどうして緑色に見えるのかとか、そもそも僕らの眼がどうやってそれを知覚して、それが葉っぱであると断定できるのかとか、そんなことはまったく意識もしないで「目の前のもの」が「葉っぱ」であるといっている。
茂木健一郎はこれを「やさしい問題」と「むずかしい問題」というふうに分けて考える。

意識しないで、やりとりできているという、そういう世界。僕らは、そういう世界で生きている。いちいち、どうして「葉っぱ」は見えるのか、「葉っぱ」とはいったいなんなのか、なんて考えなくても十分に生きてゆけるのだ。それが「やさしい問題」の世界だ。一方、その現象について事細かに分析的に考えることも出来る。そうした「むずかしい問題」の世界もある。
大切なのは、この二つの世界が別々にあるのではなくて、同じ一つの世界のことであるということだ。
この本の主題は、この「やさしい問題」の世界を、今一度立ち止まって考えてみることを通して、展開してゆく。
茂木健一郎はクオリアの人だ。クオリアとは「質感」。数量的な尺度で表せないもの。人間は「クオリア」を感じて生きている。数量的な尺度で表されるかどうか、そんなことはまったく意識しないで。
クオリアは物事の同一性を裏付ける働きをする。同時に柔軟に変化してゆく。

クオリアは、<あるもの>が<あるもの>であることを安定して維持しつつ、その<あるもの>が置かれる文脈を柔軟に変化させることを可能にする形式なのである。P198

クオリアは固定してそこにあるのではない。
そして、僕らも固定してここにいるのではない。

私たち人間が生きてゆくうえで、退屈してしまう時、この世界がわかりきったものだと考えてしまう時、そこには、自分を含めた存在というものを、最初から実在している当たり前のもの、つまらないものととらえてしまう感受性がある。 しかし、以上に議論したように、一見どんなにつまらない、凡庸に見えるものにも、それが生まれてきた起源を問えば、その背後には生き生きとした生成の過程がある。自分自身が感じている世界を構成する素材であるクオリアが、脳の神経活動からその瞬間瞬間に生み出されているものであることはもちろん、私たちのまわりを取り囲むどんなにありふれたもの、たとえば何の変哲もない鉛筆や、スプーンや、土や、草も、ミクロなレベルの波動関数の収縮によって、刻一刻生成されつつその同一性が保たれていると考えれば。同じ風景が全く違って見えるはずである。P208

「以上に議論したように」・・・・。その議論がこの本の中心なのである。
それにしても、この本は、科学書なのだろうか、哲学書なのだろうか・・・。まるでエッセイのようでもある。とても不思議な本だ。

<蛇足>
ソニーロリンズの1959年の雲隠れ
「やさしい問題」として縦横無尽に吹きまくっていたアドリブを「むずかしい問題」としてとらえなくてはならないような、そんな気持ちが引き起こしたのかもしれない。


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投稿者 furukawa_yasushi : 2005年02月16日 00:00

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