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2005年03月31日

中村歌右衛門--政岡--伽羅先代萩

[映画・ドラマ・舞台--movie/play ]

2001年3月31日。午後6時47分。
六世中村歌右衛門 死去。
忘れられないその日、満開の桜で賑わう東京では雪がふりました。
「桜」といい「雪」といい、中村歌右衛門を見送るのに、これ以上はない、そんな景色。

1988年(昭和63年)12月。
国立劇場では第151回歌舞伎公演として「伽羅先代萩」の通し上演が行われていました。
僕はチケットも持たずに出かけました。
どうせ空いている席があるはず・・・・。おめあては3階の安い席。
ところがお目当ての席は満席で、かろうじて空いていたのが、最前列の舞台にむかっていちばん左。花道の反対側の席。この席は二等席で3階席の倍以上の値段。ちょっと、ためらっていたのですがせっかく来たのだからとチケットを購入。結果からすれば、これは運命的ともいえるでしょう。歌右衛門が生前に演じた最後の大役(だったのではないでしょうか)、そんな舞台を最前列で見ることができたのですから、その偶然に大いに感謝せねばなりません。

歌舞伎座で白波五人男の通し狂言を観たのがその年の5月。それ以来、歌舞伎の「けれん味」にとりつかれて毎月歌舞伎座に通う羽目に。でも、その日、僕が国立で観たものは、そんな「けれん味」などと言うものではありませんでした。

歌右衛門について語ると言うことは歌舞伎について語ると言うことではありません。
不思議に思われる方もおられると思いますが、それだけ、歌右衛門と言う役者は歌舞伎と言う世界を超越していたのです。「超越」?でも、それ以上の言葉がみつかりません。
しかし、その超越は歌舞伎という「かたち」があってこそ美しく花開いたといえるもの。

歌舞伎は近代演劇のような写実的な表現をとりません。「型」とか「かたち」が大切で、いかに舞台で「型」や「かたち」が美しいかが大切です。実際にその美しさは時代や時間を超えて僕らの心にまでちゃんと届いているのです。

たとえば、「金閣寺」では桜の大木に縛られた雪姫が舞台一杯に降りしきる花吹雪の中、降り積もった花びらに足で描いた鼠が雪姫を縛った縄を噛みきって助けます。その花吹雪のすごいこと。江戸時代から日本人はこういうことをやってきたんだ、なんて変なことに感心しながら、舞台につくられた夢ともうつつともつかない不思議な世界に僕らは魅了されるのです。

そして、歌右衛門はと言えば、舞台の上で、正岡という役を、演じているわけではなく表現していたのです。
演じているのではなく・・・?
そう、舞台の歌右衛門は、とても人間には見えなかったのです。人間には見えなかったけれども、それはまさしく我が子を身代わりにする運命に身を捧げた一人の母親の姿でした。手の動き、首のかしげ方、身ののけ反らせ方、そうしたものが一体となって、僕の中に飛び込んできたのです。

同じような経験をしたのは、中村吉右衛門の熊谷陣屋を観たときでした。シンプルな物語の骨格が吉右衛門の動きで骨も肉もついて生き生きと舞台を踊っていました。

歌舞伎がすごいなと思うのは、まさにこの点です。
つまり、言語的なコミュニケーションを越えた、でも僕らが日常的に感受しているコミュニケーションの手段を、精練した身体の動きにまで昇華した表現。それは誰にでも出来ると言うものではないでしょう。さらには、歌舞伎役者だったとしても誰でもできるものではないでしょう。でもそれは、誰にでも感受することが出来るものなのです。
そして、そういうコミュニケーションを感受し、僕らは言葉の呪文に身動きが取れなくなってしまいがちな日常から解放されるのです。

1988年の国立劇場で、僕にそんな歌舞伎の魅力を観せてくれた(魅せてくれた)中村歌右衛門は、思い出してもやはり素晴らしく、僕にとっての永遠のアイドルなのかもしれません。

文化デジタルライブラリーの上演記録
六世中村歌右衛門展


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2005年03月31日 00:00

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トラックバック時刻: 2005年04月06日 11:00

コメント

ジャストタイミングで開花宣言でしたね。
いいものですね、やっぱり。
何か、目の前で咲く、ライブの桜自身が型やかたちの日本美そのものですね。反応しちゃいます。

投稿者 some ori : 2005年03月31日 17:07

>演じているわけではなく表現していた
この、平易な言葉だけが並んだ一文が、僕に、非常に多くのことを語ってくれました。目からウロコが落ちるとはこのことでしょうか。抽象とは?の答えでもあるような気がしました。

投稿者 masa : 2005年04月01日 01:36

some oriさん
桜満開の歌舞伎の舞台はリアリズムではなくデフォルメされた桜です。そのデフォルメの仕方に日本的なものがあるのでしょう。
ちなみにこの記事の伽羅先代萩は実に地味な舞台です。

masaさん
僕が書きたかったことをわかってくださっていますね。
嬉しいですね。
歌舞伎を観るたびに、リアリズムの不毛さを感じてしまいます。
表現というのはすべてデフォルメされたものではないでしょうか。

投稿者 fuRu : 2005年04月01日 08:53

あのシンプルな一文で、fuRuさんがおっしゃりたかった事が、解っただけではなく、伝わってきましたよ。それは、あの一文が、すでに、説明に留まらず、表現になっていたからだと思います。コミュニケートとはこういうことなのかも知れませんね。

投稿者 masa : 2005年04月02日 00:43

masaさん
「抽象とは?」という問いかけもすべてコミュニケーションあってのこと。
形式化などの問題もよって立つところはコミュニケーション出来ているかどうか。
歌舞伎と言う世界を観ていると、そのへんに日本独自の解決方法を見出していると感じます。浮世絵もそうかもしれません。

ところで、masaさんは歌舞伎は観られるのですか?

投稿者 fuRu : 2005年04月02日 13:53

fuRuさん、このところヒマになったかと思うとまた突然猛然たる忙しさになったりで、コメントが遅れ、申し訳ありませんでした。
僕は、歌舞伎はまったく観たこともありません。が、あの一文を読んで以来「観る力」をいただいたような気がします。

投稿者 masa : 2005年04月06日 15:55

masaさんの写真は「目が釘付けになる」感じです。
写真も「観る力」の世界なんですね。

投稿者 fuRu : 2005年04月06日 16:00