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2007年02月19日

地震と城下町@鳥取

[建築--architecture ]

鳥取城(通称「久松城」)は、戦国時代中期(1545年)に出来た自然の地形を生かした出城であり、眼下には鳥取の城下町が広がっています。その城下に現存する武家屋敷が、先日の「岡崎邸」であります。また、先に紹介した「仁風閣」は鳥取城の丸の内にあります。

冒頭の写真は、鳥取城下の古地図です。「NPO市民文化財ネットワーク鳥取」のHPよりお借りしてきました。
地図が傾いているのはオリエンテーションを合わせているためですが、中央の上が鳥取城です。そのすぐ外に最初のお堀があって、そこからは武家屋敷のエリアが次のお堀まで続いています。さらにその外と蛇行する自然の河を利用したお堀までの間が町人街になっています。一般的なお城の形式ですね。

この鳥取の城下は大きな災害に何度か襲われているのですが、その中でも昭和18年(1943年)の鳥取震災はマグネチュード7.3、死者1025名という、壮絶なものでした。
民家家屋はほとんど倒壊したということです。そのなかでも特に武家屋敷の被害に比べて町民の長屋の被害が大きかったそうです。

武家屋敷の造りが町人の町家に比べてしっかりしていた、とうことはあるかもしれませんが、マグニチュード7以上の地震ではどれほどの差があるのか、というところでしょう。現在では、倒壊の差が出た大きな原因は武家屋敷街が地盤改良されていたためだということが分かっています。

鳥取の城下は急峻な河川が運んできた堆積土で出来た平地です。その堆積土も粘土質ではなく上流が岩山であることから砂礫質だと思われます。つまり、決して良好な地盤の上に街をつくったということではないわけです。どちらかというと出城としての条件の良さから先に城を造ったというところでしょう。

その武家屋敷街は、「ハンチク」と言って土を突き固める方法で地下数メートルに及ぶ地盤改良を施してあったわけです。
また、震災の被害が大きかった町人街も深い排水溝が張り巡らしてあって、地盤中の水分を出来るだけ排出するように考えられています。このような知恵も、驚くばかりであります。

大変な土木工事だったと思います。それがいつの時代に行われたのか、どういう経緯でそのような大変な工事が行われることになったのでしょう、その全容ははっきりとは分からないのですね。

ただし、参考までに高精細画像のデータベースになっていた鳥取城下の古地図を見てみましょう。

鳥取城下絵図集

一枚一枚の画像は大きすぎて気軽にダウンロードできませんが、サムネイルだけ見ていてもずいぶん昔から、城下のお堀は完成していたことがわかりますね。

現代に生きる我々が近代の科学と分析力で解明して初めて分かったというような事柄も、過去の人々にとってみれば、きっと経験からすでに知っていたことであったのではないでしょうか。経験の継承ということ、その大切さについて考えさせられます。

参考までに「NPO市民文化財ネットワーク鳥取」でつくられた、安政6年(1859年)の地図を紹介しておきます。この地図と最初の地図のオリエンテーションを合わせています。



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投稿者 furukawa_yasushi : 2007年02月19日 16:20