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2007年07月23日

「滝山コミューン一九七四」---原武史

[books ]

「滝山コミューン一九七四」
著:原武史 出版:講談社
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このところ、私が住んでいる東久留米市(東京都)にまつわる話題が目に付きました。
ひとつは「河童のクウと夏休み」というもうすぐ公開の映画は東久留米市(黒目川)が舞台。
そして、この本も東久留米市立第七小学校が舞台になっているのですね。
ただ、この二つが大きく異なっているのは、「河童のクウ」が東久留米の自然を舞台にしているのに対して「滝山コミューン」は「団地」という人為的に出来た街を舞台にしているところでしょう。

東久留米市は、黒目川、落合川の自然に恵まれ、古く縄文の頃から集落もあり栄えていたところです。
しかし、その東久留米の中でも「滝山」付近は団地建設によってつくられた人工的なエリアで、古くからの集落と離れているせいもあり、一種独特の空気があります。

その滝山団地の中にあるのが第七小学校。通称「七小」です。

この本で描かれているのは、1974年当時の小学校において
「集団主義」と「個人主義」がどのように教育の現場で考えられていたのかということの一つの例です。
そして、その例が極端な展開をしたことを著者は自らの体験もふくめて描き出そうとしています。

「集団主義」と「個人主義」。
どちらが大切か、どちらを先に考えるか、という大命題は
今でも、その答えが求められています。

住宅でも、街との関係は否応なし。
ゴミの問題もふくめて街はみんなで集まって住む場所ですから、当然ルールもあります。
逆に、いくら閉じても外からの視線そのものをなくすわけにはゆきません。
それだったら、街に対してどのように開いてゆこうかということを考えた方が良いでしょう。
閉じるというネガティブな視点よりも開いてゆこうというポジティブな視点が楽しいと思います。
でも、やはりここにも「集団」と「個人」のせめぎ合いがあります。
これは都市部の住宅の最も重要なテーマとも言えるでしょう。

話はそれてしまいましたが
今、我々が問題としている「集団」と「個人」という問題に対して
少し前の人たちはどのような理想を掲げて対処しようとしてきたのかが
この本にはあります。
その方法が良いか悪いか、というよりも、人というものが集団化して、個々人の判断が希薄になることが、いかに怖いことかと感じます。個々人の自律的な判断がない集団主義は、とても怖いのです。

蛇足ながら「滝山コミューン」と著者が名付けた、ある時期のある運動については、そのようなキャッチーな名前を冠する必要があったのかなと、読後に思いました。

滝山コミューン一九七四(aki's STOCKTAKING)


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投稿者 furukawa_yasushi : 2007年07月23日 09:15

コメント

蛇足ながら、あれは「コミューン」と名付けるべきものだったんだ......という、著者の思い、考えから書かれていると思います。それが本書執筆の動機と言えるんじゃないかと思います。

投稿者 AKi : 2007年07月23日 10:09

AKIさま
コメントをありがとうございます。
AKi様の言われるように「滝山コミューン」と「名付ける」ことがこの本の動機であると思います。逆に、そう名付けなければこの本そのものが身の置き場を失いかねないという感じも受けました。
実は、その辺の事がもっと詳細に書かれていればなあと思っていたりします。

投稿者 fuRu : 2007年07月23日 11:55

私も日教組の理想教育を受けました。民主教育のおかげで、こういう理想をやたらと掲げるものは胡散臭いという
ことを学びましたので、これも反面教師と考えております。

投稿者 日教組はアホ : 2007年08月12日 06:15

日教組はアホ さま
理想教育が悪いわけではない。
「理想教育」と言ったとき
「理想的である」ということへの想像力の欠如が大いなる問題なんだと思っています。
10人子供がいたら10通りの生き方と考え方があるに決まっているのに、そのバラバラさがもっている豊かさをどうにか生かせる世の中になって欲しいし、そのためにはまずは大人が変わらなくてはならないのでしょう。問題の根っこは深いのだと思います。

投稿者 fuRu : 2007年08月14日 22:16