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2009年09月03日

「twitter」と「blog」

[ウエッブ--web ]

090830-twitter.jpg

少し前から「twitter」なるものを始めてみました。ブログの右のサイドに最近のつぶやきが表示されるようにしています。(Twitter Updates)
少し前からアメリカで流行していましたので「twitter」という名前は私もよく目にしていたのですが、ぶつぶつ個人がつぶやくということがインターネットの中でどういう意味をもつのか、さっぱりとわかりませんでした。たしかに、有名人が今何をしているのか、どこにいるのか、そういうことがリアルタイムで本人から発信されたら、覗いてみたいというのも、あるのかもしれませんが、ほぼ無名の私のような個人のつぶやきにいったいどのような意味があるのかないのか。

「twitter」というのは、簡単に言うと140字以内で各自が自分のつぶやきを投稿するしくみなのですが、個人名だけではなく関心ごとをキーワードをタグやIDで切り分けて、そのキーワードに対するつぶやきをフォローできるようになっています。そして、共有された関心ごとに世界中の人がつぶやきあうのです。実は「twitter」という仕掛けで世界の共鳴現象が可視化されているのではないかと感じています。その共鳴現象の大きなうねりの中に自分という存在をおくこと。「twitter」というものの面白さはそこにあるのではというのが、現時点での私の感じているところです。

私もblogを始めて5年。一時期のような百花騒乱の騒ぎもおさまってきて、blogもその位置づけをはっきりと示してきているように思います。その傾向を一言で言えば、今日は何をやったとかそういう日記的なものよりも、しっかりとした記事を定期的に書き続けているblogが生き残っている、ということになるでしょう。それは、やはり個人的ジャーナリズムの道具としてblogが生き残っているということなのだと思います。言い方を変えると、問題意識や志向性・趣向性がはっきりとしたblogが生き残っているということです。
私も、建築や住宅、家づくり、住まい、生活、というキーワードでblogの記事を書いてゆこうと考えています。一方、blogが持っている「生々しさ」といいますか「ライブ感覚」というのも捨てがたいわけです。捨てがたさのあまり、今日は何をやったのか、という日記的な記事も、私のblogには今まで混在してきました。それが、私のblogをわかりにくいものにしてきたことは事実です。これは私のblogの大きな問題点として、既に何人かの方からはご指摘をいただいておりました。それに対する適当な対応策もなく最近までやってきたわけです。

さて「twitter」という仕掛けが世界の共鳴装置であると書きましたが、なぜ共鳴装置になりえるのかというと、その簡易さシンプルさがもつ「ライブ感覚」があるからでしょう。「twitter」という仕掛けはとても「生々しい」もの、リアルタイムなものです。とすれば、その特徴を生かしてblogと共存させれば、私のblogも、もっとわかりやすいものになるのではないか。ということで、blogと「twitter」の共存ですすめてゆくのが良いというのが私の場合の結論です。

インターネットの世界も、電子メールからblog、YouTube、twitterと柔軟にさまざまな仕掛けを取り入れ変化してきています。この変化を支えているのは、いうまでもなくユーザーです。ユーザー主導の変化、ユーザー主導の流れ。インターネットが偉大であり不可逆の変化を社会にもたらしたのだとすれば、ユーザー主導の運動を柔軟に自由にすすめるための仕掛けとして機能してきたことにつきるでしょう。こうした新しい流れが次の世代を作ってゆくのだと思います。

<「twitter」の使い方>
「twitter」のホームページから無料の登録が出来ます。その時に自分のIDを決めます。このIDでログインして、さまざまな人のつぶやきをフォローする事が出来るようになります。もちろん、自分のつぶやきをフォローしてもらう事も出来ます。仕掛けはこれだけです。


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2009年09月03日 09:40

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