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2010年03月08日

OPENING NIGHT----John Cassavetes

[映画・ドラマ・舞台--movie/play ]

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昨年の暮に届いたDVD Box。時間を見つけては一本ずつ観ていましたが、先日、最後の「OPENING NIGHT」を観終えました。ちょうど仕事に使うつもりで買った小さなプロジェクターで家の壁に投影して観ていたのですが、やはり良いですね。
映画とテレビの違うところはいろいろありますが、表現としては「自分で発光」しているのか「反射した光」なのかという光の質の違いがあると思います。もちろん、大きなスクリーンに投影すること(巨大性)、薄暗い部屋で複数の人と見ること(集団性)、など映画の表現としての特質はいろいろあげられますが、光の質の違いをカサベテスの映画を観ていて感じました。

カサベテスの映画は、ともするとその製作の手法の特異さばかりが語られてしまいます。しかし、「OPENING NIGHT」をみると、全体の構成が実にしっかりしていて、様々なショットが映画全体の中でのポジションをしっかりと持っている事に気がつきます。こういう映画は即興性を主軸に持っていては作りようがないのではと思うのです。彼については映画製作での即興性ばかりが取り上げられるのですが、即興性はカサベテスにとってはひとつの手法でしかない。問題は映画を観るものに何を伝えたいと思って即興性という手法をとっているのか、ということになります。
そこには、カサベテスの強い意志の力があるのです。

カサベテスの映画には多くの人が語っているように、ザラザラとした質感があります。布に例えるとわかりやすいかもしれません。絹の布地のなめらかな感じはもちろん素敵なのですが、時には麻や綿のざらつく感じも私たちの肌は求めます。なめらかであれば良いというわけではない。ざらつく感じを求める私たちもいる。
カサベテスの映像には、私たちが求めるざらつきがある。

映像というのは滑らか過ぎると、とたんにリアリティを失います。もちろん、映画は現実の世界ではありません。夢の世界です。でも、夢の世界の言葉で現実を表現すること。カサベテスが一環して語りかけようとしてきたことは、私たちの生活や社会に転がっている現実の世界。とすれば、映画の語り口として絹の布地で服を作るわけにはゆかないのです。

撮影手法も同様です。脚本ですべて決めてしまう手法は、現実感を隠蔽してしまう。逆に、映画が持つ「そのままを記録してしまう」というドキュメンタリー性から映画というものが逃げ切れないとすれば、それをあえてドラマの中に利用することで、映画でなくては出きない表現、社会や私たちの身近のことを映し出す表現が可能になってくる。そこにこそ、映画の可能性がある。カサベテスの映像のざらつきには現実を優しく見つめる彼のまなざしがある。

カサベテスの映像のざらつきがどうしてこんなに魅力的なのか。あるいは、彼の映画について語る時のある種の無力感。映像について語るということの無力感。
そして、そのざらつき加減はテレビのモニターでは失われてしまいそうだと言う事。

そして、私も彼のざらついた映像を強く求めているということ。
そこにあるリアリティの大切さ。
これは、建築でも同じ、住宅でも同じ。

「映画」という世界でカサベテスが残してきた足跡は、いろいろなことを考えさせてくれます。


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2010年03月08日 11:45

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