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2011年06月05日

「ロング・グッドバイ」---レイモンド・チャンドラー

[books ]

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「ロング・グッドバイ」
著:レイモンド・チャンドラー 訳:村上春樹 発行:早川書房
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「純文学」と「娯楽小説」に何らかの違いがあるとすれば、いかに長い期間に渡って多くの人に愛され支持されてきたかが鍵となるでしょう。この違いは「古典」と「現代」の違いと言い換えても良いかもしれません。
レイモンド・チャンドラーが1953年に発表したこの小説は、1958年には清水俊二氏の訳で同じく早川書房から刊行され、日本においても長きに渡って愛されてきました。とすれば「ロング・グッドバイ」という小説は「古典」であり「純文学」であるといえます。
でもしかし、そんなふるい分けなんて笑い飛ばしてしまうほど、この小説は面白く、今なお多くの人の心を揺さぶるのです。
もともと、「純文学」という括りは小説全体の中で一段高い価値のあるものというブランディングによる決めつけでしかありません。
小説とはなにか?小説をなぜ私たちは読むのか?それはただ単純に面白いからです。笑い転げたり、共感したり、悲しくなったり、憤ったり、本を読みながら私たちは疑似体験をし、物事を深く考えるきっかけをもらっているのです。それが「面白い」ということであるし、「面白い」ということは定義されるものではなく経験されるものなのですから、実は小説の価値、面白さというものは、ブランディングという、いわば定義(決めつけ)とは一番遠いところにあるものなのです。
村上春樹が「ロング・グッドバイ」を「準古典小説」と言って理論武装するその意図は、たぶんこの小説の面白さを最大限にフォローしたいということにあるのだと思います。
「面白ければいいじゃない」
まさにそのとおり。でも、ただ面白だけで何十年も愛され続けることはない。そこに、この小説のほんとうに面白いところがある。
心理描写がなく客観的な記述だけで物語を語る。物語とはそもそも解説されるものではありません。登場人物の心理を説明することなど、ただの余計なこと。そのように、淡々と記述することに徹したためにこの小説は今までなかった小説の地平を築くことになった。村上春樹の分析はそのようなところにあるのだと思います。そして、その心理描写をせず物事の起こったさまを客観的に記述するというスタイルはジョン・アーヴィングへの系譜の源流となっているのだと思うのです。


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投稿者 furukawa_yasushi : 2011年06月05日 18:50

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