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2006年03月20日

そつえん

[家族--my_family ]

060320-sotuen.jpg

ある日、家に帰ると
家人がしくしく泣いていた。
何で、泣いてるのと聞くと
僕に向かって「悲しくないの?」という。

「?」と、僕。

聞けば
「はっちゃん(娘)が卒園しちゃうんじゃない。さみしくないの?
どんどん、私たちから離れて行っちゃうんだよ。」

僕は、ちょっと驚いた。
幼稚園を卒園して、小学生になることは喜ばしいことだと思っていたからだ。
もちろん、家人だって子供の成長を喜んでいるのだけれど
家人は自分から離れてゆくということを悲しんでいる。

「あれ?」
僕は純粋に、娘が小学生になるのを喜んでいた。
それも、自分から離れてゆくなんて感覚は一切なく
逆に自分に近づいて来るという喜びで一杯だった。

ここ一年で、娘との会話は進化していた。
何を言っているのかわからない、言葉遊びというよりも音遊びのような会話から
話の筋や、物事を彼女なりに考えているその一端が、会話からにじみ出てくるようになっていたからだ。
彼女は、僕のもとに近づいてきているのだ。
それが僕にはとても嬉しかったのだ。
だから、近づいているという感覚こそあれ、決して、離れてゆくというふうには感じていなかった。
それが「あれ?」と言う感覚だ。

しかし、家人のその涙は、僕に「お母さんという存在」を直感的に教えてくれた。
首も据わっていない、おっぱいもあげて下のお世話もしなくてはならない、
そういうときの記憶を、お母さんは自分の身体に刻みつけているのだ。
いやいや、もっとさかのぼって胎内にいるときの記憶、あるいは胎内での相互関係を
世のお母さん達は自らの身体に刻みつけているに違いない。
母親と子供の関係は分かちがたく結びついているのだ。
だから、子供の成長は我が身の一部を引き剥がされる感覚になるのではないだろうか。

自分のもとに近づいて来るという僕の感覚とは大違いだ。

そこには、”missing”と”coming”の違いがあると思った。

そして、今日、娘は卒園式を迎えた。

投稿者 yasushi_furukawa : 2006年03月20日 21:20

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コメント

わたしが泣きそうになったのはね、
ずっとずっと送り迎えで、道を歩く時はわたしと一緒だったのに、
大きすぎるランドセルの肩のあたりに決意と緊張をみなぎらせて
ひとりで学校に向かう娘の後姿。
うしろからちょっと離れて隠れるように歩きながら、
もう、泣きそうでたまらなくて、見送るに見送れなくてずっとついていった。
あれは missing そのものだったなぁ。

投稿者 りりこ : 2006年03月20日 22:11

なるほどなぁ。お二人の気持ちが伝わりました。
過去から未来へと繋がっていく感じで、素敵なお母様とお父様だなぁと思いました。

ご卒園おめでとうございます。

僕(ネットでブログを読んでいる人 笑)はいつまで娘さんの絵を見ることが出来るのかなって、少しだけ思いました^^

投稿者 Amehare : 2006年03月21日 00:54

りりこさん
そうですよね
お母さんはやっぱり”missing"なんでしょうね。
お母さんとお父さん、あるいは男と女というふうに一般化する気はないですが
違うんだな、っていうことを、この出来事を通して感じたというわけです。
そういえば、家人も小学校に行くと送り迎えがなくなるので、それも”missing”だというようなことを言っていました。

Amehareさん
ありがとうございます。
娘の絵は継続してここで紹介してゆくつもりですが
小学校に行って強烈ないじめにあわないともかぎりません。
その場合、人生が屈折してしまうでしょうから、創作活動ははたしてどうなるか?です。
世の中、何が起こるかわかりません。はい。

投稿者 fuRu : 2006年03月21日 08:56

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