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2006年04月09日

「国境の南、太陽の西 」---村上春樹

[books ]

「国境の南、太陽の西 」
著:村上春樹 出版:講談社
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僕は、村上春樹の小説が好きだ。
しかし、一時期、全然読めなかったときがある。
読んでも、その世界にうまく入ってゆけなかったのだ。
それは、小説でいうと
ちょうど「ダンス・ダンス・ダンス」と、この「国境の南、太陽の西 」の頃になる。
足かけ5年、ずいぶんと長いブランクだ。
2冊とも、読んだには読んだのだが、まったく頭に入らなかった。
というわけでこの本を、もう一度読み返してみようと思った。
それは、村上氏がカフカ賞を受賞したのを機に、一度村上春樹をおさらいしておきたかったということと、先日の「村上さんに聞いてみよう330の質問」の中で、この小説が多くの外国の人の記憶に残る小説だということを知ったからだ。

それから、先の「330の質問」の中では、この小説を「不倫小説」というジャンルであつかっているやりとりがあった。
ここのところ、家族とはなんだろうと考えているということもあって「不倫」=「反家族」というそのへんのことが、どんな風にこの小説の中で描かれているのか、大いに気になるところでもある。

というわけで、本を読んでみてなんだけれども
確かに、不貞という事件は起こるけれども、小説の主題はもっと別のところにあると思った。
この本は不倫小説でも何でもない。
それは、島本さんとの関係にフタをして、妻である有希子の元に戻るハジメを、有希子は優しく迎え入れるその時、二人はほんの少しだけかもしれないけれども、確実に自らの皮を脱ぎ捨てる。この小説では、そのシーンに優しさがあふれれている。この優しさこそが、この小説の中心であると僕は思った。

結婚という制度、家族、家庭という制度を根底から揺すぶった島本さんという存在が嵐のように通り過ぎたときに、ハジメ自身が発見したのは、人を縛り付ける制度(その制度は彼にとって受け入れがたいものであったのだ)が、自分自身をいかに守っていたのかということだった。

そして、それに気がついたとき、その制度の中に身を戻して、ハジメは娘たちの姿を追う。

14年前に読んだときに、赤鉛筆で囲んだ部分があった。

幻想はもう僕を助けてはくれなかった。それはもう僕のために夢を紡ぎだしてはくれなかった。空白はどこまでいっても空白のままだった。僕はその空白の中に長いあいだ身を浸していた。その空白に自分の体を馴染ませようとした。これが結局僕のたどりついた場所なのだ、と思った。僕はそれに馴れなくてはならないのだ。そしておそらく今度は、僕が誰かのために幻想を紡ぎだしていかなくてはならないのだろう。それが僕に求められていることなのだ。そんな幻想がいったいどれほどの力を持つことになるのか、わからなかった。でも今の僕という存在に何らかの意味を見いだそうとするなら、僕は力の及ぶかぎりその作業を続けていかなくてはならないだろうーーたぶん。

創造的であるということ。一人の人間の中で、日常の生活の中で創造的であるということ。創造的に生きるということ。その問いかけが、ここにはある。
そして、それは、家族という社会の制度によって、けっして損なわれるものではなく、その制度の中でこそ生き延びるもの、生き続けるもの、生き続けなくてはならないものだということ。
そうした、制度の中で生きるという命題を、島本さんとの関係を経て、ハジメは正面から突きつけられるのだ。、そして、その問題の大きさを前にして、途方に暮れる。
ラストシーンの喪失感は、島本さんを失った喪失感ではなく、独りよがりな自分に安住していたその場所そのものが失われた、あるいは最初からそんなものはなかったことに初めて気がついた、という喪失感なのである。

僕らは、いったいどれくらい自らのいる場所を自覚しているのだろうか?
その場所が、社会の制度に守られていることをどれくらい自覚できているだろうか?

どこかで目にしたボブ・ディランの言葉が頭をよぎった。
「法の外で生きるには、誠実でなければ ならない」

投稿者 yasushi_furukawa : 2006年04月09日 23:15

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