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2006年06月16日

「杉のきた道」---遠山富太郎

[01-森林をいかす家づくり--moriiki ,books ]

「杉のきた道」-日本人の暮しを支えて
著:遠山富太郎 中公新書-419(現在絶版)
amazon(古本あり)

新書というのは雑誌扱いで、よほどのことがない限り増刷はしないと聞いたことがある。
そこが、ハードカバーの書籍と大きく違うところだけれど
なかには、しっかりした内容のものもあり、そういう新書が雑誌のように扱われるのはいささか問題があると感じる。
この本も現在絶版であるが、とてももったいないことだと思う。

「杉のきた道」というタイトルであるが
生物学的に、日本に杉という植物が帰化したという話ではなく、
日本人が杉という樹木といかに生活をともにしてきたかを紹介してくれる本。

森林をいかす家づくりの会」は、千葉県南部の主に斉藤造林さんの杉材を使うことを念頭に置いて活動しているが、なぜ「杉」なのか?という問いかけなしには、会の活動はなりたたない。
そのためには、日本人と杉の関係についてしっかりと考える必要がある。
この本は、まさにそのための、最良のガイドブックではあるまいか。

以下、内容に関する覚え書き。

<登呂 板のはじまり>
日本に自生していた野生の杉は、高さが60メートルにも成長する。
この巨大な杉の木を利用するために板に割るという技術が発達したのではないか。
登呂遺跡のあぜ道をつくる矢板。
樺太と違い、日本に丸太づくりの小屋が発達しなかったのは
樺太に生育する針葉樹はその気候からせいぜい30メートルで
丸太のままの運搬が可能だったことによると思われる。

<小さい板ほど役に立つ>
茅葺きの屋根からコケラ葺きの屋根。
茅材は体積があり輸送が困難。近くに茅場が必要。
江戸の町屋はコケラ葺き。コケラ材の流通の問題。
クレという木材の商品形態。
山の中の立ち木でもないし、建材に製材されてもいない、中間的な商品。
大径木を柾目方向に三角形に割り、中心部分を取り去った台形の断面をしたもの。
徳川時代の始め頃から、松本藩が上高地の木を江戸に運ぶことができたのは
クレという中間商品を介した流通が成立していたことと、
クレを薄く割る技術が進歩して、カサばらず運搬しやすい屋根材として運ぶことが出来たから。

<Honey bucket>
「Honey bucket」というのは、進駐軍の兵士が肥桶を称した言葉。
肥桶は杉の割板で出来ていた。
杉桶の流通に果たした役割とその重要性。
江戸の街が清潔だったのは
街で発生する人糞が郊外の畑地に搬出されるシステムがうまく機能していたから。
西洋の都市にはみられない清潔さの実現。
また、杉の樽が液体物の運搬に活躍、
流通を支えたことにもふれ、杉と日本人の生活の関わりとして紹介している。

<高瀬舟>
日本の船が、大径木からとれる、長尺幅広な材料を前提に作られていること。
西洋の船が、細かい部品を組み合わせて作られていたのとは対照的。
ただし、それ故、日本の海岸付近の大径木は切り尽くされてしまった。

<スギの歴史 日本の文化>
大きな歴史でスギをみる。
4500年〜1500年前(RⅢa帯)。日本でスギの時代。
有史時代(RⅢb帯)。生え茂った杉を使い尽くす。全章までの内容。
現存する天然スギ。スギの自生地。

生存競争のある自然状態でスギの多い林が成立する土地は、ヒノキ、ヒメコマツのやせ尾根と弱湿のブナ林との中間地帯であろう。P.168
日本人が鉄器をてにして現れた時、目的が舟木であれ、他の用材であれ、平地のスギがまず狙われ、次々と姿を消して、山中の場合とは違って見落とされることもなく根こそぎにされて、平地からは絶滅してしまったのであろう。P.172

蛇足ながら、神社への参拝記念にスギの苗を買ってくるという習慣はずいぶんと古くからあったようだという紹介があり、スギという木のある種の力を感じさせるエピソードとして興味深かった。

投稿者 yasushi_furukawa : 2006年06月16日 08:10

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