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2004年12月13日

「美術史とその言説」--宮川淳

[books ,アート--art ]

「美術史とその言説」
著:宮川淳  出版:水声社  定価:3800円+税
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宮川淳の最後の著書。
「絵画にとって近代とは何か」や「アンフォルメル以降」など、
重要な論文が納められています。

今回は、そのなかで「マティスと世紀末芸術」という論文についての覚え書き。

建築の世界、あるいは近代デザインの世界では
アドルフ・ロースと言う建築家の名前がでてきます。
一言で言うと「装飾は罪悪だ」という発言が有名で
近代デザインをコルビュジェとともに引っ張っていったとされています。
ロースについては謎が多すぎるために、そういう片言の話しか出来ませんが
ともかく、そんなに否定しなくても良いのにというくらい装飾を否定して物議を醸し出したわけです。
探したら「ロースハウス」を紹介されているかたがいました。
ロースハウス
この建物が出来た時には、その装飾の無さに非難が集中したとか。
今見ると、十分装飾過多に見えるのは僕だけではないでしょう。

ようは、装飾をするかしないかというところには問題は存在しないと言うことなのだと思うのです。
マティス展を見て、その後いろいろ考えて、そのように思います。
そのきっかけは、この宮川のマティス論です。

さて、本題です。
1869年生まれのマティスがアール・ヌーボーを知らなかったはずがありません。
フォーヴィズムの視点でアール・ヌーボーをながめた時に、その装飾性が純粋な造形原理として立ちあらわれてくる、それがマティスではないか、というのがこの論の中にでてきます。
マティスの場合、その造形が純粋であることが重要なのだと思います。
社会性とかそういう堅いことは抜きに、そこに描かれている世界に僕らが対峙する時に僕らの心に安らぎや躍動が何の曇りも無く感じられることが、マティスの絵を見る喜びなのです。その喜びこそが、こんなにも多くのひとの心をとらえている根っこの部分だと思うのですね。
これは、やはりマティスという芸術家の個人的な資質の問題とも言えるわけですが、その喜びの表現を通してみると、コルビュジェやロースにとって、あんなにも忌まわしかった世紀末芸術というもののなかにも、「忌まわしさ」のほかに「純粋な造形原理」が区別されて見えてくるのです。
「これこれはこれこれだ!」というようなスローガンは、その時代を引っ張る力を確かに持っているとは思いますが、多くの場合、大切なものを覆い隠してしまう結果を生んでしまいます。
僕らは、ロースが攻撃した世紀末芸術の装飾の中に、喜びの種を見つけるべきであって、否定しても仕方がない。否定からは何も生まれないのだと思うのです。
だから、僕らに必要なのは、ステレオタイプ化した「装飾否定」でも「装飾礼賛」でもありません。
そんなときに、マティスの絵が教えてくれるのは、喜びというようなもの。それは、心地よさ、快適さというようなこと。宮川はマティスが世紀末芸術の中に見つけた喜びの種について目を向けてみようと言っているわけですね。
心地よさや快適さを人の喜びに変えてゆくことの大切さなのではないかと思います。
マティスに教えられることは大きいですね。

国立西洋美術館で開かれている「マティス展」も
昨日で会期を終了。
僕は10月1日に観に行ってきたわけですが
そのエントリーはずいぶんと多くのひとに見ていただいたようです。
僕のブログがどういうキーワードでヒットしているかという最近のデータを見てみると
1番と2番が同じくらいで、それは「アフターダーク」と「マティス」でした。
そして、どちらにも多くの方からコメントやTBをいただきました。
書いた当時はこんなに反響があるとは思ってもいなかったわけですが
これも「ブログの力」のなせる技なのでしょうか。


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2004年12月13日 09:15

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