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2006年01月30日

「ふりかえったら 風-1」---きたやま おさむ

[books ]

「ふりかえったら 風-1」
著:きたやま おさむ 出版:みすず書房
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北山修の1968年から2005年の対談を
三冊の本にまとめた第一冊目。
なかでも、寺山修司との対談は出色。

寺山「いま観光旅行というのがひじょうに盛んで、正月とか夏休みとかにこぞって外国に行くでしょう。OLなんかちょっと貯金がたまるとすぐに外国に行って遊びたがる。ところが、あれは旅行をするというより、自分自身を単に観客にするということであって、演じ手にするということになっていない。ほんとうの意味の旅にはなっていない。ほんとうの旅というものは、自分を観客じゃなくて演じ手にすることだと思うな。そういう意識が深まったときにはじめて、日本人である自分も外国というふうなものもとらえられる。これまで、文化としての旅というふうなものは、こんなに海外旅行が盛んになっているのに、まだまだ豊かには語られていないと思うのです。

宮本常一は旅をした人だと思う。
旅をすることによって文化を築いたのではないだろうか。
辺境を歩いた人へのオマージュは、そういう気持ちの現れではないかと思う。

旅は場所を移動するだけではなく
異なった場所で演じ手になることだという寺山。
演じ手になってこそ、はじめて異なるものとの交流が生まれる、そういうことだろう。
相手を理解するためには、観客ではいられないはずだ。
旅は単なる自分探しなんかじゃない。
旅に出ても、観客のままでは自分なんて見つけることはできない。
世界とつながるための手段としての旅。
それは、異なった文化との接触と変容を
自らの体験を持ってなしとげる演じ手としてかかわること。
それは個人的な活動を超えて文化的な活動となるだろう。
多分、そのようにして、シルクロードは存在していたに違いないのだ。

観客ではなく演じ手になること。
寺山のメッセージは、とても深く広い。

左幸子、山中恒から戦時中の話を聞く対談は
世代を超える旅としてとらえられよう。
話を聞くこと。
実際に体験していないことだって
観客としてではなく、演じ手として
話に耳を傾けることによって、次の世代に伝えられるのだろう。

観客と演じ手というのは
北山がマスコミの中で演じる自分がどのように現れるかを通して考察されている。
そして、今、ブログがこれだけ盛んになり
個人の情報発信が限りなくマスコミに近いものになってきている時に
かつて、北山修がマスコミとパーソナルコミュニケーションの狭間で苦しんできたことは
すでに、僕らの身近な問題となっているのだ。

というわけで、このブログ時代に
この対談集の価値は極めて高いと思うのです。


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2006年01月30日 10:45

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コメント

ググってみたら、現在は九州大学の教授になっているんですね。
80年代は昨日徘徊した青山四丁目辺りでよく見掛けました。

投稿者 iGa : 2006年01月30日 15:43

iGaさん こんにちは
北山医院はやめちゃったんですね、きっと。

僕が北山修のフアンであるというのも
中学生がレッドツエッペリンを聞いているのと同じく
ちょっとずれているのでしょう。
iGaさんの世代ともちょっとちがうんでしょうけれども。

投稿者 fuRu : 2006年01月30日 15:52