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2005年08月15日

60年

[家族--my_family ]

久しぶりにお盆の頃に帰省しました。
我が実家は現在、長岡ニュータウンというところにありますが
僕が生まれたのは、平成の大合併で「上越市板倉区」と呼ばれるようになった
かつては「中頸城郡板倉町」というところでした。
兄の仕事の関係で長岡に実家ごと引っ越したのが13年前。
それは、ちょうど、僕らが結婚した年です。

父は新井市(現在は妙高市)、母は中郷村(現在は妙高市)で生まれています。
父と母が結婚して板倉町で暮らし始めたのは昭和32年。
いまから48年前のことです。

60年前の終戦の時。
父は高等科の学生で学徒動員で近くの工場で働いていました。
母は小学生で、毎日、大豆を炒ったもの(非常食)とメンタームを入れたズタ袋(救急袋)を抱えて学校に通い、校庭を耕していました。

すでにその頃は、ゼロ戦の失墜で日本上空の制空権は奪われ、母の上空にも米軍の爆撃機が飛んでいったそうです。
その爆撃機は、現在住んでいる長岡を空襲し多大な被害と犠牲者を出しました。
長岡の花火大会はその規模で日本屈指ですが、開催日の8月2日と3日は長岡が空襲の被害に遭った日です。

そして、その頃父は、化学薬品の工場で仕事をしていました。今にして思えば、それは化学兵器を造っていたのではないかということです。

終戦の日、母は大人たちが噂している話に恐怖を感じていました。
日本人はすべて捕まえられて、手に穴を開けられ針金を通して海に放り込まれ、フカの餌にされてしまうというその噂は、結局は根も葉もないものでしたが、その様子を語る母の瞳には、その当時の様子がくっきりと見えているかのようでした。

僕は今年42歳で、母が30歳の時の子供ですから、こういう話を両親から聞くことの出来る最後の世代かもしれません。
そんなことを噛みしめながら暑い東京に帰ってきました。

投稿者 yasushi_furukawa : 2005年08月15日 09:31

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コメント

furuさん、ご両親の貴重なお話しありがとうございます。
当時流されたデマも含めて、こういうお話こそが戦争の真実だと思います。
また機会がありましたら、聞かせて下さいね。

投稿者 うるとらまりん : 2005年08月16日 01:03

うるとらまりん さんとの出会いは
昨年の9月に再放送された、従軍カメラマンサワダを取り上げたNHKの番組を観て自分でも記事を書きましたが
http://af-site.sub.jp/blog/archives/2004/11/post_143.html
この番組のことを書かれている方は他にいないかなと検索していて
うるとらまりんさんの記事にたどり着いたことがきっかけでした。
http://xbashi.oops.jp/blog/archives/000581.php
今年のお盆は、いままで断片的に聴いていた両親の話をもう一度聞いてみようと思って帰省しました。
僕も、この年になって始めて両親の戦争体験を真剣に聞いてみたくなったのでした。

投稿者 fuRu : 2005年08月16日 09:16

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