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2006年03月11日

「現代落語論」---立川談志

[books ]

「現代落語論」
著:立川談志 講談社
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先日の「落語ブームなんてしらねエ」以来
気になっていたこの本を読んだ。

子供の頃、すでに僕の周りでもテレビは普通にあって
日曜日のお昼には「大正テレビ寄席」、そして夕方には「笑点」を必ず家族そろって見ていた。
「大正テレビ寄席」は漫才が多かったが、「笑点」では古典落語もしばし演じられていた。
そんな僕の少年時代、落語のおもしろさは、割と身近にあったのだと思う。
子供のくせに割と落語が好きで、テレビにかじりついてみていた記憶もある。
中学の時は落語クラブに所属して学園祭で演じたこともある。

この正月に、NHKで「日本の話芸」という番組の特選集が放映されていたのを見た。
僕はそこに、その昔テレビにかじりつきながら味わっていたある種の濃密な空気を期待していたんだけれども
最後の小三治になっても、ついには心引き込まれることなく
4時間が過ぎてしまった。

さて、この本は、立川談志の落語への愛が思いっきり語られている。
談志曰く、論ではなく覚え書きだというこの本は
読んでいて、どんどん引き込まれてしまう。
そして、読み終えてから、この本が1965年に出版されたと知って、驚かされる。

落語という伝統芸能がどのように次の世代に受け継がれてゆくか。
いやいや、落語という豊かな言葉の世界を生んだ時代そのものが変わってしまったんであって
落語は今の時代に合うように変わってゆくべきだ、と語りながら
落語の豊かさが失われてゆくことへの痛烈な危機感が語られる。
その答えは、本の中にはない。僕ら自身が見つけなくてはならない。

建築の世界も伝統をどう受け継ぐのかは大きなテーマだ。
だから、僕にとっても、この本は何度も読み返すべき本なのだ。

時代というものは変わる。変わらないと人間保たない。それは「好奇心」という、人間だけが強烈に持った本能・・・とは違う、妙なモノ・・・、これが満足出来ないからで、好奇心の満足のためにゃ、どんな「いいモノ」とされるものでも捨てられてしまうのだ。

もう一ついうと、人間は知性で文明、文化を造ったのではない。ひとえに好奇心のためであろう。だから文明を止めるわけにはいかないのだ。知性なら、ことによると、知性でストップがかけられるかも知れないと、天才手塚治虫は「火の鳥」で、”次の人類に期待しよう”と結んだが、次の人類もだめだろう。人間、知性ではなく好奇心なのだから・・・。

でもなァ・・・、好奇心を知性で止めて・・・、ダメかァ、好奇心をストップさせるのは「恐怖心」だけだろうし、その恐怖心とは、動物と違って全てデータという過去の経験、学習の上に成り立つものだろうし。たとえていえば、トリカブトを食べたら”死んじゃった”というデータがあるから、それは食べないのでアリマス。けど、そのトリカブトもことによると、炒めりゃ喰えるかも知れないという好奇心を持った奴が出てくるかも知れないし・・・というこっちゃ。

(中略)

その好奇心というヤツは現状に飽きるから、常に新しく、次の段階に行こう行こうと急かせるし、マスコミという困った代物が電波を、新聞を、雑誌を、売らんがために。これに拍車をかけるから、とてもとても「衆寡敵せず」で敵わない、たまらない。で、それに対抗する人間の業を語って・・・好奇心をこっちに向けてやる・・・あーあ。

2002年の遺言大全集に収録されるにあたり書き下ろされたこの後書きに
芸道の道を歩く者の強い意志を感じる。
僕も芸道の道を歩く者の一人として
この言葉を受け止めたい。

投稿者 yasushi_furukawa : 2006年03月11日 09:00

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