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2006年04月18日

Steve Reich 1965-1995 [BOX SET]

[音楽--music ]

Steve Reich 1965-1995 [BOX SET]
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ちょっと前になるが、
スティーブ・ライヒの音楽をまとめて聴く機会があった。
彼の作品に貫かれていているのは
「構築」への強い意志だと感じた。

同じミニマルミュージックの輪の中に入れられる
テリー・ライリーと、スティーブ・ライヒは対照的だ。
ライヒの作品は、たとえ偶然より見いだされた手法であっても
そこに計画性が生まれるまで試行錯誤が重ねられる。
そして、こうして我々の耳に届くときには、しっかりとした、揺るぎない空間を獲得している。
一方、ライリーの方は「in C」が代表的なように
揺るぎない空間を最初から放棄して参加者の各自の意志の「自由」にまかせ、そこから立ち現れる空間を目指している。

ライヒの「構築」された世界の美しさ、説得力、それは否定できない。
一方、参加者の「自由」を最大限に許すライリーの、底知れぬ懐の深さも魅力的だ。

「構築」と「自由」。
物事が創造されるときになくてはならない二つの側面。
いや。しかし、ライリーの中に「構築」はないのか?
ライヒの中に「自由」はないのか?
ライヒとライリーを「構築」と「自由」の二分法で色分けすることにどんな意味があるのか?
そもそも、「構築」と「自由」の二分法なんてこの世にあるのだろうか?

音楽は「持続」と「分節」で、その空間は把握される。
しかし、実際の音楽には「持続」も「分節」もない。
「持続」とか「分節」というのは、我々が把握するための概念でしかない。
それは実在しない。

ライヒの「構築」された空間に身を沈めながら
そこに現れる「自由」の響きを聞き取ること。
ライリーの「自由」な音の洪水のなかに
厳格に「構築」された空間を見いだすこと。

そこにこそ、ミニマルミュージックの「存在」があると思う。

ライヒの音楽を聴きながら、そんなことを考えた。

ライヒについては「快楽原則」のkompfさんが
初期のテープ作品を中心にした詳しい記事を書かれている。
Come Out / Steve Reich(「快楽原則」)

<蛇足>
個人的には、初期のテープを使った作品の方が
計り知れぬものを持っている感じがして心惹かれる。

投稿者 yasushi_furukawa : 2006年04月18日 09:45

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コメント

fuRuさま
トラックバック有難うございます。

ライヒとライリー、どちらも"ミニマル・ミュージック”という括りで語られることが多いですし、私自身も説明・紹介するときなどはこの語を用いることが多いのですが…
考えてみると、自分がこの二人の音楽を聴くときには、同じ括りという意識はほとんどありません。

ですから、ライヒ,ライリーの音楽を、こういう風に考えてみることもありませんでした。
「なるほど」という感じです。

この記事からは全く的外れなことですが、私にとっては、ライリーの音楽もライヒの音楽も"カラフル”です。
ライリーの音楽は、文字通り、本当に色彩豊か。それがソロ曲であっても、色に満ちています。
ライヒの音楽は、例えば、「モノクロなのに非常に色彩を感じる映画」ってありますよね。あんな感じです。
逆に、多色使い(オケ曲など)でもモノクロ的味わいがあると思います。
どちらも魅力的な音楽です。
(関係ないレスですみません…)

投稿者 Kompf : 2006年04月19日 04:17

kompfさま
「構築」というような視点でものを見てしまいがちなのは
建築設計という職業柄かもしれませんね。
僕として興味があるのは、複数の人が集まって何かをする、ライヒとライリーは演奏するわけですが、そういうときの方法論です。建築を作り上げる作業も、クライアントがいて職人さんがいてと多岐にわたる複数の人の共同作業です。その共同作業の中で一つの形を作るということでは建築と音楽は僕の中で繋がっています。ライヒとライリーの方法論の違いはとても刺激的なのです。

色彩に関するコメントは僕も納得です。
視覚的なイメージと音楽というのは切っても切れないと思うんです。そのことについて、鋭く意識していたのが武満徹ですよね。

投稿者 fuRu : 2006年04月19日 09:44

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