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2006年06月07日

もんしぇん

[映画・ドラマ・舞台--movie/play ]

060606-monsyen.jpg

「もんしぇん」という映画の試写会に参席させていただいた。

舞台は、熊本県御所浦町牧島。
tamさんにならいGoogleで覗いてみれば
複雑に入りくんだ入江が目にとまる。

ゆっくりと寝息を立てるような凪の海、その水面に写る空。
そして、「もんしぇん」は、この地を映し出すために作られた、そんな映画だった。

「もんしぇん」という言葉は「だから」という意味だそうだ。

「だから」・・・。
「だから」なんなの?

身ごもった主人公「はる」の異界探訪というストーリーをもった映画である。
だが、異界探訪ということは、この映画では決してドラマの中心軸ではない。

僕たちは、いつから「私」という殻の中で生きるようになったのか?
「私」は「私」という仮定された殻を超えて存在するもの。
「私」という仮定された殻を超えることは、つまりは異界とふれあうことではないだろうか。
そこでは、異界探訪は日常であり、非日常ではない。

私という現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)


青い照明の光は、幾重にも重なり合う。
それぞれの光を持ち寄って、おおきな光となる。
ひかりは「私」という殻を超えてゆく。
それは、流れ星の輝きに似て。

土人形を作り続ける老人たち。
私たちは人形に何を求めているのか?
人は、さまざまなものに
ひかりを見出してきた。
人は人形であり、人形は人である。
ひとは人形の中に人を見、私を見る。

そして、

内海の独特な湿度の中で
「私」という殻は溶け出して、海の中へと流れ込み、ひとつとなる。

老人たちとの世代を超えたつながりを発見し
「私」という殻を超える。

みごもった「はる」は、自分の中に海を感じるという印象的なセリフを語りながら海水に身を沈める。

「私」から「私」へ。
そして、「私」と「私」。
つながること、かさなること。

だから、天草の海を舞台に、人と人は、つながり、かさなる。

<東京での一般公開>
2006年8月19日より 上野・東京国立博物館敷地内映画館「一角座」にて

<「もんしぇん」応援団>
映画 もんしぇん(MyPlace)
「もんしぇん」の公開(MyPlace)
もんしぇんの試写会 (MyPlace)
もんしぇん(aki's STOCKTAKING)
『もんしぇん』応援団(Kai-Wai 散策)
もんしぇん(MADCONNECTION)
Family Tree(MADCONNECTION)
Wednesday, June 07, 2006(some origin)
映画「もんしぇん」試写会 (漂泊のブロガー2)
♪ウミハ ヒロイナ、大キイナ~。(Chinchiko Papalog)
もんしぇん(KARAKARA-FACTORY)


<関係者・スタッフ>
Psalm of The Sea(主演・脚本・音楽の玉井夕海さんのブログ)
映画「もんしぇん」の構想にまつわる雑記帳(イメージ設計の海津研さんのブログ)


<蛇足-1>
御所浦町は九州でいうと、このオレンジ色の○のところ。

<蛇足-2>
帰りがけ、お手製の映画のサントラが希望者に配布された。
もんしぇんプロジェクトの基金とするために希望者は提示された原価以上の寄付金(?)を支払う。
僕も一枚所望。

CDのラベルは、主演の玉井夕海さんの直筆だ。
映画のエンディングタイトル「脈動変光星」は
mF247から、フリーダウンロードできる。
夕海さんの歌声はすばらしい。

投稿者 yasushi_furukawa : 2006年06月07日 14:50

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私は熊本市の出身なんだけど、天草には数えるほどしか行ったことがない。結構遠いんだ [続きを読む]

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もんしぇんの試写会が、渋谷の「シネカノン試写室」で行われた。平日の午後3:30からという時間帯だったのは、きっと費用のせいなんだろうが、40人ほどの小さ... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年06月19日 22:30

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映画もんしぇん で一番みたかったのは 海津研さんがされた「イメージ設計」だった。 というのも海津さんのブログで見た海のイメージがあまりに美しかった... [続きを読む]

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『もんしぇん』、海に命を感じる不思議な映画でした。主人公・はるを演じるのは『千 [続きを読む]

トラックバック時刻: 2006年08月31日 06:03

コメント

fuRuさん、こんばんは。
「私という現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です・・・」
というのは、宮澤賢治の『春と修羅』の「序」に書かれているものですが、
この天草の「もんしぇん」は宮澤賢治とどこかで結びついているのですね。
たしか、玉井パパさんのブログで、「よだかの星」のイラストも出ていました
しね。どういうことなのか、拝見してみたいのですが、関西だといつ上映さ
れるのかわかりません。まあ、気長に待ちましょう(^0^)。

投稿者 わきた・けんいち : 2006年06月07日 22:58

わきたさん
僕はこの映画について、何か書きたいと思って
しばらく静かに考えながら、片言の言葉を書き留めていたのですが
その時に、「私」という括弧付きの私が括弧に縛られて生きているというイメージが現れてきたのです。それも、その括弧を主人公のはるが振り払おうとしているイメージとして。
それで、「私」と書き留めてみたら、次に宮沢賢治のこの言葉が浮かんできたんです。
今も、春と修羅の序を読み返していたんですが、人と人が重なりつながるというイメージが豊かに描かれていました。
「もんしぇん」という映画が内海という地を通して、生と死、人と人がつながる、というイメージを僕らに伝えてくれているということは、宮沢賢治の言葉と、しっかりとつながっているのだと思います。

投稿者 fuRu : 2006年06月07日 23:15

わきたさん ついでになんですが
映画の挿入歌で「ズンパ音頭」というのが出てきます。
http://megellanica.hp.infoseek.co.jp/zumpa.html
僕は、ものすごく懐かしかったんです。
この歌が聴けるだけでこの映画は、すごいなあ、と思っちゃいました。

投稿者 fuRu : 2006年06月07日 23:35

fuRuさん 丁寧に、真正面からとりあげてくださり、ほんとうにありがとうございます。
「私」という概念をこの映画に重ねて考えると、はじめて思ったことがありました。
女のひとが身ごもるということは「わたし」と世界のあいだにもうひとつ、「わたし」に準ずる存在が生じるのですね。わたしの中に海があると同時に、私の中に私がある。それは、女でもなく母でもないぼくたちには想像するしかないのですが。

投稿者 玉井一匡 : 2006年06月08日 20:49

玉井さま
>それは、女でもなく母でもないぼくたちには想像するしかないのですが。
しかし、玉井さんが「MyPlace」という言葉で伝えてくれている「場所」は、そうした垣根を越えたものですよね。
玉井さんはお嬢さんの中に自分の姿をみたりしませんか?
見ているはずだと思います。そうでなければ「MyPlace」という考えにいたらないと思うから。
僕は、娘にも息子にも、それぞれの姿の中に自分の姿を見ることがあります。
それは、ある種、身ごもったと同じことなのではないかと、勝手に想像しています。
それにしても、余韻が後からどんどんわいてくる、とても素敵な映画でした。
お嬢さんにもよろしくお伝えください。

投稿者 fuRu : 2006年06月08日 21:23

わきたさん 「よだかのほし」に、かつてぼくも大きくこころを動かされました。学生時代に「自己否定」などという言葉が語られましたから、あらゆる生き物は、他者を傷つけ、あるいは殺生をしなければ生きてはゆけない。自分が生きることはそのぶんだけだれかの生きる場所を奪っている。そういう認識は、努力して強くなったものは正しいと考えるアメリカ流の価値観にすれば敗者の思想だということになるのでしょう。しかし、アメリカ流の価値観は遠からず人間を滅ぼすでしょう。この映画でよだかのほしをシンボルのひとつとしているのは、生と死がひとつながりのものであること、人間のいのちとて自然の営みの一部に過ぎないという視点、そして「場所の力」への信頼を共有しているからだと思います。なんて、ぼくの発言は共犯者の一人というつもりです。もし、わきたさんご自身気に入ってくださったら、関西地区でも、ぜひ応援してください。

投稿者 玉井一匡 : 2006年06月08日 21:41

玉井さん、fuRuさん、こんばんは。
玉井夕海さんの「もんしぇん」、7/28に東京で拝見させていただくことにします。29日から宮澤賢治の生まれた岩手県で学会があるからです。そのときに、「春と修羅」・「よだかの星」と「もんしぇん」との関係も感じることができるのでしょう。私のような映画のことがわかっていない者が応援団だと申し訳ないのですが、拝見したときにはぜひ拙ブログで取り上げさせていただこうと思います。

投稿者 わきた・けんいち : 2006年06月10日 01:28

これで わきたさんも
「もんしぇん」応援団ですね。
わきたさんの記事、楽しみに待っています。

投稿者 fuRu : 2006年06月10日 03:13

はじめまして。「もんしぇん」の共同脚本と、コメントで話しに上っている「よだか」の絵を描きました、かいづです。
よだかの星は好きな話しで、はじめて童話を題材に絵を描いてみたのですが、読むうちに、これは自殺願望を肯定してしまう話しなんじゃないか、と思い悩みました。
今の世の中のしくみが、どうも他者の犠牲の上に成り立っている自分、という存在を前向きに捕らえる為のプロセスが欠けているような気がします。きっとそういう自分を肯定できない人が、ますます増えているんじゃないか、という気がしています。
そしてそういう問いかけから目をそらすためのモノがたくさん作られていますね。

多分、「もんしぇん」ではそういった他者の命と自分の命をつなぐサイクル、サークルを再確認したいという意識もあったのかも知れない、とみなさんのコメントを読みながら思いました。

投稿者 かいづけん : 2006年06月10日 03:23

fuRuさん、玉井さん、かいづけんさん、おはようございます。たまたま、知人のサイトをみていて、スタジオジブリのDVD『種山ヶ原の夜』(男鹿和雄)が発売されることを知りました。原作は宮澤賢治の作品です。そのストーリーも、このコメント欄で皆さんが語っておられることと共通しています。ジブリのサイトでは、次のように書いてあります(一部コピペ)。

「樹霊たちは伊藤青年と、山の木を伐るかどうかをめぐってやりとりをします。木々がしげり“こもん”とした山は伊藤青年にとっても、水が沸き、アケビやキノコがとれる豊かで「立派」と感じる風景でした。けれど、その木を伐って木炭を焼かなければ生計が立ちません。木を伐ることに異議を唱えていた樹霊たちも、最後には「それなら木を伐ってもしようがない。でも、いい木炭を焼いてくれ」と答えます。この世に生きているのは人間だけではないことを宮沢賢治が伝える、不思議な一晩の夢の物語。」

私は原作をきちんと読んでいないのですが、『なめとこ山の熊』とも共通しています。

投稿者 わきた・けんいち : 2006年06月10日 04:21

かいづけん さん
はじめまして。
「よだかの星」を読み直してみましたが
この話でよだかは
死にたいと思っているよりも、ひかりになりたいと思っていると僕には読めました。
楽観的かな?

それにしても、青空文庫というのは便利です。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/473.html

投稿者 fuRu : 2006年06月10日 12:07

最近また宮沢賢治を読んでいるところだったので
fuRuさんの日記の中に『春と修羅』の中の好きな部分が出てきて感動です。
熱を持たない青く透明な光。
光はけっして重くはなく質量は持たない。
その分自由で重なり合い反射する輝きは大きくなる。
大好きな池澤夏樹さんも『言葉の流星群』の中で
このようなことを書いていらっしゃいました☆
見てみたいです☆


投稿者 ヘルミーネ☆ : 2006年06月10日 13:11

ヘルミーネ☆さん
「もんしぇん」は、素敵な映画でした。
たぶん、誤解されてはいないと思うのですが
「もんしぇん」は宮沢賢治の映画、あるいは宮沢賢治に関する映画ではまったくありません。
僕の個人的な感想、感じたものとして
生と死、そのつながりの中での「私」についての映画だと思ったときに
宮沢賢治の世界と通底するものがあると思ったのでした。
「もんしぇん」は、九州は天草を舞台にした
ある女の子(女性?)が生と死を見つめる映画です。
映画を見ている人には分かり切っていることなんですが
一応、蛇足的補足です。

投稿者 fuRu : 2006年06月10日 20:30

東京造形大の2000年の研究報(紀要)に『宮澤賢治と「彼岸」のイメージ(倉林 靖)』という優れた論文があります。
そのPDF化されたサマリーが大学のサイトから読めます。
http://www.zokei.ac.jp/gallery/research/index.html

投稿者 iGa : 2006年06月15日 14:50

fuRuさん どうもです。 本日ようやく 試写会にいけました。 
>それは、女でもなく母でもないぼくたちには想像するしかないのですが。
という玉井さんのコメントに私は同意します。 
私が感情移入できるのは 近藤正臣の役柄でした。 
そういう自分を引き受けるしかないと思っています.。

投稿者 いのうえ : 2006年07月06日 01:29

いのうえさん 行かれたんですね。
>私が感情移入できるのは 近藤正臣の役柄でした。
はずかしながら、実は、近藤正臣の役柄は、ちょっとよくわかんなかったのです。
たしかに、子育ても終わった頃の男性、最愛のものを失ってしまった男性、がこの映画に登場することで
映画の時間軸はとても豊かになっていると思うし、
近藤正臣が出てこなかったら、大きなものが足りない映画になっていたとも思うのですが・・・。

投稿者 fuRu : 2006年07月06日 08:12

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