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2009年11月13日

「10宅論」---隈研吾

[a-家づくりについて---house_making ,books ]

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「10宅論」
著:隈研吾 ちくま文庫
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1986年10月にでた本を、遅ればせながらといえばあまりにも遅く(何といっても四半世紀)読了しました。
この本の面白いところは日本における住宅のあり方を、考現学的に、それも俯瞰的に眺めようとしているところで、もちろん23年も前の視点ではありますが、それによって建築家という存在を相対化しようとしているというところです。それも、隈研吾さんという建築家が書いているところがますます面白いわけです。

「10宅論」とはもちろん篠原一男の「住宅論」のもじりであり、篠原が住宅の中に芸術(絶対的なもの)を見たのに対して、隈は住宅を人々の欲望のもとにたぐり寄せ相対化しています。

1の「ワンルームマンション派」では、家族論を超えてワンルームを旅と性のメタファーととらえるところが新鮮です。ただし、電話線一本で外部とつながるというくだりは、誰もがわかるように携帯電話がこれほど普及している現代では意味を成しません。それどころか、ワンルーム空間は携帯電話によりますます相対化され人と人の繋がりが切れた浮游する空間になっているわけです。

2の「清里ペンション派」では、文脈の中に置かれることによって象徴的な意味を生みだす日本的な象徴作用が、西洋のお家の断片的なコピーを見事に西洋の象徴として受け入れることを可能にしているというくだりが面白い。また、急勾配の屋根が家族の団結を希求している象徴であること。プレーリースタイルが望まれるのは、家族を象徴することと同時に都市からの逃避としての旅を表しているのだという指摘も実に面白い。都市と自然との弁証法的な緊張関係。確かに日本の住宅を特徴づけるもの一つの傾向だと思います。

3の「カフェバー派」は演じる自分を楽しむ空間としての住宅です。なるほど、ある種の雑誌ではよく見かける風景です。ちょっとバブリーな感じでしょうか。確かに、今でも住宅のあり方のひとつの流れとしてあると思います。

4の「ハビタ派」は団塊の世代に限定されています。ファッションの一部として取り入れられた西洋の合理主義が根底にあります。舶来品信仰と白いビニールクロス志向というのはなんとも象徴的です。

5の「アーキテクト派」。ここでやっと建築家に設計を依頼する人々があらわれました。建築家は知の窓口として、その存在が求められています。建築家に頼む人は建築家との知的コミュニケーションを求めている。ウン、確かにそういうところ、あります。また、やはり建築家のブランドが大切だと考えているという話も出てきます。

6の「住宅展示場派」は、いわゆるハウスメーカー派です。家は買って住む人たちです。こだわりは持ち家です。「ハビタ派」の人たちは合理的な結論から貸家を選択する人もいますが、「住宅展示場派」はあくまでも持ち家にこだわります。そのこだわりが「住宅の人生化」を生み出します。
隈はこの動きが日本に西洋的な住宅文化を根付かせたと言います。その理由は4つ。折衷を恐れなかったこと。うわべだけの移入に徹したこと。合理性のうたい文句とは逆に西洋のイメージを売ったこと。西洋のイメージを売るために写真を多用した空間の見方を教えるパンフレットを武器にしたこと。
「展示場住宅が画期的だったのは、その出来上がりとは異なる状態を、あたかもその出来上がりの状態であるごとく錯覚させる技術にたけていた。(本文より p149)」

7の「建売住宅派」は、「住宅展示場派」の親戚であるが、その違いはパンフレットを持たずに実物を見せて売るところにあります。実物を見せて売るために品数の多さを武器にしています。一方、品数は増えるのだが、「場所」を失ったモノたちはその存在を主張するためにアクが強い。これがメディアをもたない「建売住宅派」の売り方です。
「実物があってそれを載せるメディアがあるのではない。まずメディアがあって、そのメディアの形式が、実物を決定しているのである。(本文 p160)」
この章のもっとも重要な部分は「住宅とメディア」と小見出しのついたp166からでしょう。本書の核心部でもあると思います。住宅がメディアによって規定されているのだということが指摘されています。

8の「クラブ派」とは、若者が集まるクラブではなくて銀座のクラブのこと。勘違いしやすいので注意。クラブとは男性から見た理想の家庭を演出している。それは一方的であり、理想でしかない、ゆえにどちらかというと妄想に近いのかもしれませんが、リアリティの欠如した家庭のコピーであると指摘されます。しかし、ここでややこしいのは、そうしたクラブを住宅がまねるのですね。屈折しているといえば屈折している。家族の構造が2重3重になっています。

9の「料亭派」は、クラブ派と双子の兄弟。高級料亭のスタイルが家庭に持ち込まれるのです。高級料亭のスタイルを作ったのが吉田五十八と村野藤吾だというのは、いささか走り過ぎていると思いますが、和風の抽象化、モダニズムを取り入れた和風というとらえ方はわかりやすいと思いました。

最後の10の「歴史的家屋派」ですが、ここはものすごく考えさせられるところがありました。「歴史的家屋派」とは何世代にもわたり同じ家に住み続ける人たちのことです。もともと住宅とはそういうものでした。核家族化が進み、戸建て住宅がどんどん増えていったわけですが、このような事態は日本の場合には戦後のことだと思います。とすれば、今までの9つの分類に入る人たちの方が異端でありおかしいのでしょうが、圧倒的に多いのも事実。隈は、その逆転現象について、近代が「場所」の見えない時代になったからだといいます。

「場所」は必要ない、「機能」があればいい、という近代合理主義はどこに行くのでしょうか。たぶん、高度資本主義の動きに連動してどこまでも行くのかもしれません。とすれば、そこでどのようなかじ取りをしたら良いのか。建築にかかわるものへの大きな問いかけがあります。

隈研吾さんの本は、恥ずかしながら初めて読ませていただいたのですが、とても面白かったです。次は「負ける建築」でも読もうかなと思っています。


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2009年11月13日 00:00

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コメント

なるほど、すごくおもしろいですね...と、すっかり一冊読んだ気になってしまいました。いけないいけない。

投稿者 kadoorie-ave : 2009年11月13日 02:07

kadoorie-ave さま
この本は、軽い文体で書かれていますが、実はとても難しい内容を含んだ本です。うわべだけの軽さで見過ごされがちですが、日本の住宅事情を分析的にとらえるためにはとても参考になる本ですので、ご興味がありましたらぜひ一読されることをお勧めいたします。

投稿者 fuRu : 2009年11月13日 10:00

新鮮で とても興味深く 楽しく読み進みました。

でも、最後に 考え込んじゃいました。
「近代は『場所』の見えない時代」と言う分かりやすい表現で、今 私自身がブログや諸々を通じてやろうとしている事を 思い出させ 考えさせられています。

「場所」を失った私たちは、アイデンティティを意識的に持たないと とても辛くなるような気がしているからです。

そんな時代に そんな場所の無い所に、家を生み出す建築家という仕事は 大変であると同時に 本当にやりがいのある仕事ですね。
fuRuさんのような建築家は また 家族のカウンセラーの役割だって果たしているんですもんね。

投稿者 光代 : 2009年11月14日 07:05

環八沿いのごっついヤツを作る前の本ですね?

投稿者 iw-jun : 2009年11月14日 08:50

光代 さま
たぶん、プロダクトとは場所のない生産物で建築とは場所のある生産物なのではないでしょうか。光代さんが手がけられているアルミのシェルフはプロダクトではありますが建築があってこそのもの。場所を必要としているプロダクトですよね。
コルビュジェの合理主義をインターナショナルスタイルでからめ捕ろうとすると、そこから「場所」というものはどんどん消えてゆきます。
「場所」が不要ということはありえませんが、「場所」が重荷になる時代はあるのかもしれません。さて、今の時代はどっちでしょうか?住宅雑誌をにぎわしている白い家を見ていますと、その多くが「場所」を重荷に感じているように思われます。

投稿者 fuRu : 2009年11月14日 09:21

iw-jun さま
たぶんそうですね。

投稿者 fuRu : 2009年11月14日 09:23