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2004年11月08日

「村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ」--三浦雅士

[books ]

「村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ」
著:三浦雅士
ISBN:4-403-21080-5  出版:株式会社新書館  定価:1800円(税別)

「もうひとつのアメリカ」とは
アメリカ現代文学が描いている「もうひとつのアメリカ」のこと。
でも、この本はそれだけじゃあない。
村上春樹論であり、翻訳論、現代アメリカ論でもあるのです。

そして、僕の中では「住宅設計論」ともかさなってくるのです。
(なんだ、それは?)

それにしても、たくさんの作家の名前がでてきます。
そのなかで、僕が読んだことがあるのは
カート・ヴェネガット、ジョン・アービング、レイモンド・カーバーくらいで
それも、それぞれ一冊づつ。
レイモンド・カーバーについては、村上春樹訳だったりします。
だから、本文の後半で柴田と三浦が、数々の作家と作品について語り合うインタビューのような部分が相当数の頁にわたるのですが、そのへんは、ちょっとちんぷんかんぷん、です。でも、この本はとても面白くて、あっという間に読んでしまったのです。

それは、この本が、村上春樹と柴田元幸をとおしたアメリカ現代文学論であると同時に、
秀逸な村上春樹論になっているからです。少なくとも、僕が今までに読んだ村上春樹論の中では、やっと素直に受け取れるものがでたなという感じのものだったからです。
この本を読んで、「どうして僕は今まで、村上春樹の書いたものにこんなにも心をつかまれるのだろうか」ということが、すこし見えたような気がします。

ともかく、書き出しから村上春樹論を宣言しているような本なのです。

「村上春樹は日本文学の突然変異なのだ。」
「村上春樹がそれまでの日本の小説家と違っているのは、この作家がじつはアメリカ文学にじかにアダプトしてしまった、接着してしまったからなのだ。最初は翻訳を通してに違いないけれど、なんかその翻訳が薄紙のようになってしまって、ついには消えてしまって、じかに肌がくっついてしまったような、そんな感じなのだ。」

三浦雅士は、アメリカが偉くてそこに村上春樹が迎合しているのではなく、世界全体の流れのなかで、アメリカの現代文学と村上春樹が同一の地盤をもっている、あるいは村上春樹が最近ではアメリカ文学に影響を与え始めているのだとも言っています。この辺がポイントですね。
そういう村上春樹という作家の書いたものを、リアルタイムで読むことが出来るなんて、とっても幸せなことだと思います。

さて、この本が、村上春樹論であり、アメリカ現代文学論であると同時に
この本は、翻訳論という読み方が出来ます。
そして、僕はこの「翻訳」ということにも心引かれました。

柴田元幸という方は、東京大学で教鞭をとりながら翻訳活動をされています。
村上春樹もかなりの数の翻訳を手がけていますが
村上+柴田で共訳した本も少なくありません。

世の中には「翻訳家」という職業があるんですね。柴田さんは「翻訳家」です。

ところで、「翻訳」という作業についてどう考えるか、三浦雅士の質問に答えて、柴田元幸は村上春樹の言葉を借りてこんなことを言っています。

「村上さんもいっていますけど、翻訳者の匂いって最終的にどうしても残っちゃうと思うけど。それは必要悪というか不純物だ、と」

でも、それだけじゃあない。
・三浦「いい小説の訳語の微妙な違いにも気づかせてくれるというのは、たとえば文章の呼吸のようなものもありますか?」
・柴田「そうでしょうね。それは翻訳では基本的な声が決まっていくということだと思うんです。(中略)訳しているあいだにだんだん聞こえるようになってきて、最後になるとだいたい固まってくる。」

「呼吸」とか「声」。それを伝えること。
ここで物思いにふけることしばし。

そして、「小説家」と「翻訳家」の関係。
その関係が、村上春樹と柴田元幸という具体的な関係で語られててゆきます。
もちろん村上春樹は「小説家」であると同時に「翻訳家」であるわけです。
村上春樹自身も言っていますが、「小説を書くこと」と「翻訳すること」は切っても切れない関係にあって、お互いがお互いを必要としている。そういうことなんだと思いました。
どちらも言葉を大切にして「何か」を伝える職業ですから、「小説家」と「翻訳家」のあいだには明確な線引きは出来ないですね。
しかし、「小説家」は「翻訳家」にはなりえても(それ相当の努力が必要でしょうが)、「翻訳家」が「小説家」になることは極めて困難であると思います。そこに両者の分水嶺があるのでしょう。
人の思いを伝えることと、そして、自分の思いを伝えること。

僕は、このふたつを「建築家」と「設計者」という言葉に置き換えてこの本を読んでいました。
つまり、「小説家」→「建築家」、「翻訳家」→「設計者」、です。

僕の仕事は建築の設計です。
主に住宅を中心に仕事をしています。
住宅の設計というのは、住まい手が僕の目の前にクライアントとしています。
僕はクライアントの要望を聞き、彼らの求めるものを具体的な形にしてゆきます。
これが、設計という作業です。
この作業は、住まい手の「声」とか「呼吸」を、具体的な「ひとつのかたち(=家)」に「翻訳」してゆく作業です。ですから、良き「設計者」は良き「翻訳家」としての職能を要求されるのです。
そして、「翻訳」という作業のプロセスのなかで、多くの人に共感してもらえるものをつくりあげることが出来るかどうか。それが「建築家」と「設計者」の違いなのかもしれません。

でも、「設計者」でない「建築家」なんてあり得ないと思いますし、僕はまずは、住まい手の生活(「声」とか「呼吸」)を翻訳出来る良き「翻訳家」でありたいと願っています。
「設計者」でありえない「建築家」というのは、自分の思いだけの人ですね。自分の思いを押し付けるだけではいけないということです。
というわけで、「翻訳」という作業の楽しみや喜びというものも、自分の立場に当てはめて、この本で語られていることが強く共感できました。こういうことも、この本に魅かれた大きな原因のひとつです。村上春樹というキーワードだけではないんですね。

さて、最後になります。
この本のタイトルにもなっている「もうひとつのアメリカ」について。

三浦雅士は最後の数頁を割いてまとめています。
この部分は解釈が難しいところですね。
現代アメリカ論でもあるわけですから。

「このふたつの現実が、あの世とこの世なのだ。(中略)
二つの現実がせめぎ合う場所、それこそ幻想が発生する場所だ。」

あの世とこの世というのは、小説の中の「異界」であるわけですが
それと同時に「生産体制」の中にいる人と外にいる人ということにも置き換えられています。
大人の世界と子供の世界、労働者の世界と引退した老人の世界・・・etc.

「二つの現実のせめぎあいから幻想の火花が生じる。たぶん、それが人間の生の真実なのだ。」

三浦雅士は、こうした世界が村上春樹の小説の世界を特徴づけているとしています。
僕も同意見。
そして、「強烈なメランコリー」が村上春樹にそうした世界を描かせていると続けます。

「メランコリーの一形式としてのアメリカ」
「アメリカは世界の追憶の場所」
「アメリカは世界の索引」
「アメリカ人はついこのあいだまで、世界的視点に立つためには、ヨーロッパまで出かけなければならなかった。」
「だが、二十世紀後半になってそれが違ってきた。」
「それはちょうど、アメリカが唯一の超大国になって、明確に世界の警察を自任した時期と重なっている。アメリカが世界の警察、すなわち世界についての世界、世界の自己意識になると同時に、アメリカ文学はその自己意識の闇の部分を映し出す役割を背負うことになったのだ。」

「世界文学はいまアメリカの悲哀をたぶん同じように味わっているのだ。」

「もうひとつのアメリカ」・・・・「アメリカの悲哀」、興味は突きません。

さて、僕は今回の大統領選挙の結果について
いろいろ考えていました。
そんななかで、タイトルにある「もうひとつのアメリカ」という言葉に引きつけられて
この本を読み始めました。
でも、そこには思いがけない発見(村上春樹再発見、「翻訳家」→「設計者」)も多々あり
僕にとって、とても充実した本となったのです。
そして、読み終えた今、やはり「アメリカの悲哀」ということを考えてしまいます。

村上龍氏が編集長を務められているJMM(Japan Mail media)というメールマガジンの最新号
『from 911/USAレポート』 第171回--「分裂の果てに」
最新号へのリンク
は、その「悲哀」の深さについて語ってくれているように感じました。

というわけで、僕はポール・オースターの「ミスター・ヴァーティゴ」を読み始めるとしましょう。

Mr.Vertigo・・・どこかで最近聞いたような名前ではありませんか?
***

投稿者 yasushi_furukawa : 2004年11月08日 12:43

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 柴田元幸が単独で翻訳に取り組んだ最初の二人のアメリカ作家、オースターとミルハウザーは、驚くほど村上春樹に似ていたのである。 村上春樹を読んでいた多くの読者が、... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2005年07月17日 14:47

コメント

村上春樹のあまり熱心でない読者である僕は「ノルウェイの森」(上下共・初版一刷)から先を読んでいません。僕が最初に読んだ村上春樹は彼の翻訳によるレイモンド・カーヴァーの短編集「僕が電話をかけている場所」だった。その中の「出掛けるって女たちに言ってくるよ」は、どこにでも居そうな二人の平凡な既婚の若者、彼らがハイウェイで見つけたサイクリングの女学生を襲うまでの話をごく日常的な視点で描いている。何かそこに赤いアメリカの排他的で底知れない病理が見え隠れした。

投稿者 iGa : 2004年11月09日 09:50

「僕が電話をかけている場所」
僕が読んだレイモンド・カヴァーの一冊とはこれです。
ずいぶん昔によんだのですが
暗くてやり切れなかった印象が強くて、二度と手にしていませんでした。
iGaさんにコメントをいただいて、もう一度ちょっと読んでみましたが
やっぱり暗い。やり切れなさはかわらないですね。

三浦雅士さんは、村上春樹がなぜレイモンド・カヴァーにのめり込んでいったのか、理解出来ないといっています。それくらい世界が違うということなのだと思うのですが、僕はそこに村上春樹の職人的な一面をみます。
村上春樹は文章修業なんてやったことがないと、いろいろなところで言っていますが、彼にとって文章修業は翻訳だったのではないかと思えます。
自分にないもの、あるいは自分とちょっと違った世界だからこそ、自分のためになる。村上春樹にとってレイモンド・カヴァーはそういう対象だった。自分とのあいだにある溝を埋める作業。これも翻訳ならではの作業ですよね。
僕が「設計」と「翻訳」を結びつけるのは、こうした他者との溝を埋める作業だってことが大きいのかもしれません。

それにしても、カーヴァーは暗い。
最近、ポール・オースターを読んで思ったのは
暗い暗いもうひとつのアメリカばかり見ていても仕方がないなあ、ということ。
暗いアメリカで力強いメッセージを持った物語の力が
ポール・オースターにはありました。
iGaさんもぜひ。

投稿者 古川泰司 : 2004年11月12日 11:11

オースターのファンページを開設している-hiraku-です。この本について昔書いた文章をこのたび私のブログに再録しましたので、TBさせていただきました。

私はフルカワさんの文章を読んで少しにんまりしてしまいました。
というのも、文章を読むだけではなく、その内容を自分のほうに引き付けて「建築設計では」「アメリカ大統領選挙では」と、自分の思考の糧に換えているのは、本当にすばらしいと思うからです。そして私もいつもそういう読み方をしたいな、と思っています。(私のブログの文章でも最後のほうにちょろっとそういうことを書いています。)
また、村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」を読んで、(私の仕事である)宇宙開発に関して考えたりする試みを私もブログでやってみました。

フルカワさんのブログにはエントリーが本当にたくさんあって@_@なかなか読むのがたいへんですが、とりあえず村上春樹、柴田元幸、オースター関連のエントリーから順次読ませていただきます。またコメント/TBさせていただくと思いますが、今後ともよろしくお願いします。

投稿者 -hiraku- : 2005年07月17日 04:25

-hiraku-さん こんにちは
僕はオースターもアメリカ現代文学も初心者です。
この世界の魅力に引き込まれて、入ったばかりです。
でも、この三浦さんの本や柴田さんと村上さんの対談などを読んでいてて
なんだか、今まで自分の中にぽっかり空いていた穴が見事にふさがれた感じがしたのです。
なにか、僕が求めていたものがそこにあったのでしょうね。
それが、なんなのか、少しづつ考え始めているところです。
この記事もその一端なんです。
こちらこそ、これからも、よろしくお願いします。

投稿者 fuRu : 2005年07月17日 09:40

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