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2005年05月12日

「「秋葉原」感覚で住宅を考える」---石山修武

[books ,建築--architecture ]

「「秋葉原」感覚で住宅を考える」
著:石山修武 発行:晶文社
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この本が出版されたのは1984年。
僕は21歳、学生として建築を学び始めた頃。
今考えると、学生時代にもっとも影響を受けたのは実はこの本かもしれない。
というわけで、20年の時を隔てて再読してみた。

ネパールから職人さんをつれてくる、とか、地球規模での経済を前提として、家の値段を考える。
地球規模の流通が是か非かと問われている現在、石山の言うことのいくつかは厳しく否定されるのかもしれないが、そういうことをのぞいても実に読んでいて刺激的な本であることに変わりはない。
建築がつくられるということ、家がつくられるということ、しいては、ものが作られるということにまで世界を広げて考え、「つくる」という行為そのものへの問い掛けがここにはあるからだ。

この本の「秋葉原」とは、現在の「OTAKU」が席巻している「AKIHABARA」ではない。
日常家電を買い求めるために人々が一円でも安い店を求め動き回った街としての「秋葉原」である。
日常家電の購入の時には、あれほど各メーカーの製品について調べ、小売り店の販売価格も調べ尽くしてから購入しているのに、「家」となったとたんにお手上げになってしまっている。そのくらい、家の値段というものが日常的な値段から逸脱したものであるという。痛烈な問題意識が本の冒頭で語られている。
そこから、セルフビルドという道が開かれてゆく。
蓼科の卵形ドームの経験をふり返りながら石山は語る。

すなわち、建築物をつくるのに、建設会社や工務店は必要ない。設計の方法さえ工夫すれば、すくなくとも住宅スケールの建築は素人でも建てられるし、そうあるべきではないのか。その方が安価で、良く、自由で、面白いものができる。 しかも、こうした考えは人間の手の復権、セルフ・エイドの喜びといった弱者の立場から存在するだけではない。現代の生産・流通・消費のサイクルが、かえって、そのような建設方法を生み出しつつあるという不思議な矛盾について、考える必要があるのだ。はじめに戻って言うならば、このとき私の頭に浮かんでくるのが、あの秋葉原の風景なのである。秋葉原に行けば、電気製品の部品は大方のものが安価に入手出来る。その値段は売り手との自由な交渉によるから、買い手にもモノを買う技術と、さまざまな商品に関する情報を組み立てることが要求される。つまりモノを買うことを勉強しなければならない。私はこうした秋葉原的市場の形態こそが、将来の日本における住宅生産と流通の原型にならなければならないと考える。日本の住宅をよりよいもにすること、その第一歩として現在の住宅の価格体系をつき崩すことは、こうした市場形態の構築によってしか実現出来ない。 売り手市場がメーカーの価格操作に対抗して、それをもう少しゆるやかなものへと解きはなち、さらに、その売り手市場と買い手市場とが一定の枠内での自由な取引を行う。つまりメーカーに対する買い手市場としての秋葉原を介して、エンド・ユーザーがメーカーの一方的な価格操作にゆるやかなブレーキをかけている---そんな市場が秋葉原なのだ。もちろん市場としての秋葉原にはおのずから限界もあるが。それが、いま私の考えている住宅のつくられ方に最も近い。p20-22

さて、長い引用になってしまったが、
20年を経た今、住宅の世界は石山が言ったような方向に変わったのだろうか?
残念ながら、あまり変わったとは言えない。
しかし、変わるべきであると言う気運は少しずつ熟成されていると感じる。

最近の石山修武を知ろうと彼の研究室のホームページを覗いてみたら
「開放系技術」というキーワードで論じていた。
開放系技術デザインノート2000-2001
開放系技術デザイン論ノート

これらを読むと石山が昔と変わらない位置に立っていることがわかる。

「家づくり」を住まい手のもとに取り戻すこと。
高価な商品と化してしまった「住まい」を、もっとわれわれの日常に引き戻すこと。
そして、それは、僕ら設計者がやるべきことであること。

S_Houseでの、分離発注による施主直営式の経験。
Taketo_Houseでの、木材の林業家からの直接買い付け。
壁の左官塗を週末の時間を使って仕上げられたJungle_Houseの建て主さん。
などなどなど。
おまかせの「家づくり」からの逸脱を求める人たちに、僕は可能な限りのサポートを行いながら、住まい手とともに、ものづくりの根幹にふれることが出来たと思っている。

というわけで、「「秋葉原」感覚で住宅を考える」は、僕の仕事のルーツとして、大きな存在としてあること、あったことを再読して発見する。
そして、そこには建築家でない建築家の、川合健二の姿を遠くにながめている自分がいる。
石山の活動も川合健二の再読から成立していると思う。

川合健二再考 by石山修武
川合健二の....... by秋山東一
川合健二 コルゲートパイプの家 JIA25年賞受賞 by栗田伸一

石山修武を読めば読むほど思うのは
今の時代が、川合健二についてもっと語られねばならない時代なのだということだ。


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2005年05月12日 09:40

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川合健二について語るとき、自ら弟子であることをあかし、自身も建築家である石山修武 [続きを読む]

トラックバック時刻: 2005年05月12日 17:12

コメント

古川さんが言っている事は、とても大切なことだし、強く共感します。
しかし、現実は、更にハウスメーカー嗜好が強まっている(手を動かす事より、商品としての住宅を求める傾向にある)ように思います。
1つには、日本の社会全体的にものづくりが衰退してきている。これは、ものづくりの現場がブラックボックス化・専門化してきている事と関連している。それに伴い、住まい手がクレーマー化してきて、クレームになりそうな難しい事・挑戦的なことが、できにくい土壌が培われて、ものづくりの楽しさが萎えてきている。
この状況を打開する為に、住まい手が、ファッションではなく、リアルに住まう事をイメージする必要があるし、私たちは、見学会や勉強会でそのお手伝いをする事が大切と考えている。
そういった意味で、古川さんの活動には敬意を表しています。

投稿者 迎川 : 2005年05月12日 10:42