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2006年12月15日

A House Is Not A Home---Burt Bacharach

[a-家づくりについて---house_making ,音楽--music ]

The Look Of Love: The Burt Bacharach Collection
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僕らは仕事で家づくりに関わっている。
「家」というのは「House」である。
そして、僕らは「House」をつくることは出来るが「Home」をつくることは出来ない。

「House」は、はっきりとした意図でつくられた設計図をもとに専門家が集まり作り上げる。
そこには、「計画性」というものがあるし、「計画」はほぼ確実に実行され、実現する。
設計図をつくる過程での迷いもあるし、困難な決断もともなうけれども、それはつくろうとすれば確実に完成する。

「Home」は、そこに参加するそれぞれのメンバーの恣意的な成立させようという意志によって、その存在を成り立たせているものだ。それには完成形というものは存在しない。
そういう意味では、「Home」はひとつの幻影なのかもしれない。そこにあって欲しいと望むことなくしては、現れることのない幻影。そして、僕らは幻影の中で生きている。
ガープが作り上げた「Home」のなんと生き生きとしていることだろう。

僕らは「House」をつくることは出来るが「Home」をつくることは出来ない。
でも、僕らは「House」をつくることに関わりながら
そこが「Home」として営まれて欲しいと思う。
そのために、住まい手との会話を重ね、それを形にする。

考えてみると、設計というのは「House」を「Home」とするためのプロセスなのかもしれない。
宮部みゆきが「火車」で描いたように、「House」をもとめて「Home」を失うというようなことはあってはならない。

バート・バカラックの歌は、
「House」が「Home」であって欲しいと、切々と願う歌だ。
すでに「Home」ではない「House」に大いなる喪失感を感じている歌だ。

この曲は、ビル・エヴァンスもとりあげているし
スタン・ゲッツもとりあげている。
エヴァンスゲッツも、生活破綻者として知られていて「Home」には縁がなかったに違いない。
それ故、彼らの演奏は、心の奥に響くのかもしれない。


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投稿者 furukawa_yasushi : 2006年12月15日 14:30

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コメント

"A House Is Not A Home."とは含蓄の深い言葉ですね。
いろいろ、イメージが膨らみます。

でも、もともと違う概念だから・・・。もう少しハッキリ定義しなおせば(悪魔の辞典風に)、こうなりました。
「家」=人間、ネズミ、油虫、ゴキブリ、ハエ、蚊、蚤、細菌等を住まわせるために作られた中が虚ろな建物。

「家族」=所帯として暮らしている固体の一集団で、男、女、子供、犬、猫、小鳥、金魚等から構成されている近代文明社会の構成単位。

「家庭・ホーム」=人間が最後の頼みの綱としている24時間営業の場所ではあるが、望む結果が得られるとは限らない。夢破れた人びとのお話は、古来小説の形をとって語り継がれている。


投稿者 ユリウス : 2006年12月15日 22:23

ユリウスさま コメントありがとうございます。
「House」と「Home」と、そして「Family」ですね。
ユリウスさんの「家庭・ホーム」の定義は奥が深くて奥行きがあります。
噛めば噛むほど味が出る玄米ご飯のような言葉ですね。

投稿者 fuRu : 2006年12月16日 20:25