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2007年11月15日

中村好文さんのお話を聞く

[建築--architecture ]

昨夜は、武蔵野美術大学の公開講座に出かけ
建築家中村好文さんのお話を聞いてきました。

お話の中心は今年の5月に愛媛にオープンした「伊丹十三記念館」。
記念館がいかにして誕生したのか新潮社の松家さんの口から語られましたが
伊丹フアンの中村氏がそのオファーを受けた時、電話をかじりたいほどだったそうです。

さて、中村氏のお仕事は
私の事務所がある目白の「mon sakata」というブティックの内装と
千葉県の山の中にある、古道具坂田の個人的な美術館である「as it is」を拝見したことがあるくらいでしたが、実は正直なところ、どうもピンと来ないなあ、と言う印象を持っていました。
しかし、今回のお話を聞いているうちに、中村好文さんのお仕事が少し見えたような気がしました。

そのきっかけは、会場の女性が伊丹十三記念館を実際に見て
「”さわってみたい”という感想を持った」と言っていたことです。

この記念館は、建築の本体のみならず、展示のデザインも中村氏が手がけています。
展示ブースには引き出しがあり、その引き出しの中に展示物が納められ、来場者はその引き出しを自由に開けてみることが出来ます。あまりにも多くのイラストをどう見せようかと悩んだ結果だといっていましたが、手動ハンドルでイラストが描かれた紙(布?)をくるくる回して、限られたスペースで多くの作品に触れることが出来るようになっています。そして、引き出しの取手、手動ハンドルの取手はデザインされ、見るものをその行為に誘うのですね。さわりたいという誘惑。ものとそれに触れるということの魅惑。特にこだわるという階段の手すり。(階段手すりは誰もが触るところですね)
そういえば、「as it is」でも、そこの階段の手すりは「ふれてみたい」という思いを私に抱かせたのを思いだしました。

「空間」とは身体の運動による広がりの把握から生ずるイメージであるとすれば、「建築の空間」も、走ったり飛び跳ねたりする身体のイメージと結びつきそこから生じるものだといえるわけです。一方、先日のコルビュジェ展で、コルビュジェの仕事が「映画的だ」と感じたのは、コルビュジェがそうした身体の運動から離れて「空間」を組み立てているという感覚があったからです。映画というのは、見るものの身体的な運動と視覚的な刺激を分離し、今までつながっていたそれらの関係をいったん相対的なものにしてしまったわけですが、コルビュジェは身体性から離れた、相対的な空間を生み出した、それがとても映画的だと感じたのです。

現代は映像の時代です。それも、ゲームに代表されるようなインタラクティブな映像の時代です。そして、そのゲームは手首から先の運動と結びついています。その時代に「空間」とは何か、という問いを発すれば、今まで通りの「建築の空間」も変質せざるをえないはずです。

私は学生時代に佐世保まで出かけていって見た白井晟一の建物から受けた感動を今でも忘れることは出来ません。建築を勉強しようと東京に出てきた時に、目の前にあった東京文化会館の存在感も忘れることは出来ません。そこには、全身で感じた身体性があったと思います。ただ、そうした感動を基準に現代の「空間」を語ることは不毛なのではないかと思います。

とすれば、現代の「空間」とはいったいどこにあるのでしょうか?

私は、中村好文さんの仕事に「ふれる」ということによる空間の身体性を感じました。

走ったり飛び跳ねたりする身体性による「空間」は男性的で父性原理、大文字の「空間」です。
逆に触れるという身体性による「空間」は女性的で母性、小文字の「空間」ではないでしょうか。

いままでは、大文字の「空間」が「建築」だった。
よって、中村好文さんのお仕事を「建築」ではないとおっしゃる方もおられた。
しかし、小文字の「空間」の発想からすれば
中村さんのお仕事こそが「建築」であるといえると思うのです。

たとえばそれは、村上春樹の小説を「父性」の不在から「文学」ではないとする評論家の論調に対し、「父性」の不在による村上春樹こそ「文学」であるとする内田樹の論法と、私の中では共鳴しています。

「伊丹十三記念館」の仕事(aki's STOCKTAKING)
中村好文:「伊丹十三記念館」の仕事(「東京町家」)

<この文章、加筆修正の予定>


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2007年11月15日 11:00

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» 「伊丹十三記念館」の仕事 from aki's STOCKTAKING
昨日は、武蔵野美術大学公開講座2007の第二弾、建築講座「『伊丹十三記念館』の仕事」が開かれた。 今年5月15日に松山に開館した「伊丹十三記念館」を巡っ... [続きを読む]

トラックバック時刻: 2007年11月15日 15:23

コメント

昨日は愉しかったですね。
ずっと以前、好文さんの住宅を手がけさせていただいた時、「手触りのいい住宅」だと感じました。
それで目をつぶって家の中を歩いてみたのですが、全く安心して歩け、更には風の流れや光の明るさ暗さを感じることが出来ました。私達はあまりにも建築を見る時に視覚に頼りすぎていたことを反省しました。
伊丹十三記念館、ぜひ行って見たいですね!
私のブログをご紹介ありがとうございました。

投稿者 東京町家 : 2007年11月15日 14:06

東京町家さまこと迎川さま
昨日はおひさしぶりでした。
ゆっくりと話せませんでしたが
昨日のお話は、私としてはとても良いヒントをもらったと感じています。
良い時間でした。

投稿者 fuRu : 2007年11月15日 14:15

『小文字の「空間」の発想』とは、とてもわかりやすい表現をされていますね...。
『触れるという身体性による「空間」は女性的で母性』なるものがこれからの世の中には必要となってくると、
思います、小生も...。
殺伐とした先の見えない社会ですから...。

投稿者 たかさん : 2007年11月17日 09:10

たかさんさま
コメントありがとうございます。
いろいろな要素が絡み合って、今の時代の「空間」が出来ているのだと、最近よく感じます。
今日は伊藤寛さんの最新作を見せていただきましたが、これまた刺激的で「分身する空間」なんてことを考え始めました。なんだかよくわからないですね。これについては、改めて記事にしたいと思っています。

投稿者 fuRu : 2007年11月17日 21:21