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2005年11月21日

新シルクロード 第9集 カシュガル

[報道・TV--topics ,旅--travel ]

「新シルクロード 第9集 カシュガル〜千年の路地に詩(うた)が流れる」を見た。

1995年9月8日 僕らはカシュガルの街に立っていた。10年前の、カシュガルでの4日間の滞在で僕らが見たものはなんだたのだろうか。今回の新シルクロードを見ながら様々な思いが頭の中を駆けめぐった。

10年前の旅行で、もっとも印象深かったところ、特にシルクロードに限って言えば、それは明らかにカシュガルの街だった。
とにかく人が多い大都市の西安でも、あわただしくすぎた敦煌でも、片言の日本語をしゃべる若者たちのトルファンでもなく、僕らの心にしっかりと焼き付いたのはカシュガルの街であり、そこで見た人々の姿だった。そこには生活があり、なんといっても歴史があった。民族の誇りのようなものもあふれていた。日本人や欧米の観光客も少なくなかったが、そうした観光客にはカシュガルの人々は無関心だった。彼らは、しっかりと彼らの生活を営んでいた、その姿がさりげなく、しかし力強く僕らにせまった。

今回の番組でも紹介された「老城」は1000年の時間を感じさせてくれた。1000年の時間を過ごした建物に僕は生まれて初めてそこで出会った。1000年という時間に初めて出会ったといっても言いだろう。そして、その場所は、かつての過去の場所、遺跡などではなく、今を生きる人々の場所だったのだ。

今回番組で映し出される風景の半分には、懐かしい感情が伴い、もう半分にはつよい違和感を感じた。それは、ローラースケートで走るアーケードに端的に表れている。屋外の平らな床。それはすでに象徴的な意味を持って僕らにメッセージを送ってくる。
経済の活性化がすべてだと言わんばかりの政策。なんとカシュガルまでたどり着いた鉄道。流れ込む漢民族、そして観光客。「少数民族」は「ものめずらしい」観光資源となり、外部から来た人々に提供される。そこで得られるわずかばかりの金銭、失われる「なにか」。
カシュガルという街の美しさ、その深さ、歴史、それらが毅然一体となった自然体の人々。10年前に感じた、そのかけらが少しずつ変わってきている。

<蛇足-1>
新シルクロードが始まったときに、このカシュガルの回のサブタイトルが「探検家たちのグレートゲーム」だったのが、「千年の路地に詩(うた)が流れる」に変更になりました。取材はすでに終えていたのだろうから、編集の段階で歴史的な事実、あるいは解釈に対して放送するにはまだ早いという判断がされる何らかのことがあったのでしょうか。ちょっと気になります。

<蛇足-2>

↑定休日で、店が閉まっているカシュガルの職人街にて。
この旅行の時は口ひげをはやしておりました。

<蛇足-3>

カシュガルの街に着いたときに、最初にびっくりしたのが
「こんなところにまで・・・・」ということでした。

<カシュガルのその他の記事>
○新シルクロード 第9集 カシュガル
路地と子供たち
時間・歴史
日曜バザール
日よけ傘
職人の街

<「新シルクロード」の記事>
○第10集--12月11日「西安 永遠の都
○第9集--11月20日「カシュガル〜千年の路地に詩(うた)が流れる」
○第8集--10月16日「カラホト 砂に消えた西夏
○第7集--9月18日「青海 天空をゆく
○第6集--6月19日「敦煌 石窟に死す
○第5集--5月17日「天山南路 ラピスラズリの輝き
○第4集--4月17日「タクラマカン 西域のモナリザ
○第3集--3月20日「草原の道 風の民
○第2集--2月20日「トルファン 灼熱の大画廊
○第1集--1月2日 「楼蘭 四千年の眠り


※新しいホームページで情報更新中!!

投稿者 furukawa_yasushi : 2005年11月21日 09:30

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